5月2日、川野辺家 その1
『5月2日、川野辺家 その1』
県立深薮高校から自転車で十五分。住宅地からは少し離れた町外れに、川野辺家は位置していた。
特別大きいというわけではないものの、そこそこ広い庭のある、木造二階建て。屋根や外壁からは、少し古めかしい雰囲気が感じられた。
ここでは、一匹の猫が飼われている。
名を、どん。
茶色い毛並みがトラ模様を描き、額に走る縦じまがやけにハッキリとした、目つきの悪い猫である。
今、どんは長女である香織の部屋にいて、窓から外を見ている。窓枠に接した、ごく狭いそのスペースには、小さな毛布が細長く畳まれて設置してあった。
くわーっと短くあくびをして、眼下に川野辺家の庭を見おろす。庭先では川野辺兄妹の母、香澄が洗濯物を干していた。特段気になることもなかったのか、どんは前足を畳んで目を閉じた。
この季節、どんは毎日二階の窓際に陣取って、気持ちのいい日差しを浴びながら昼寝をする。たいていの場合、昼過ぎのエサの時間までこのまま動かない。
どんは動くのが嫌いである。常にのんべんだらりとリラックスしていて、隙あらば寝る。だれかがじゃらそうとしても、基本的には無視。例えそれが一家の長、川野辺兄妹の父、嵐であっても、無視。彼のテンションを上げるモノは、世界広しといえど、あんまりないのである。
いつもどおりの気だるい午前。
どんは誰に気兼ねすることもなく目を閉じて、惰眠をむさぼった。
●
午前十時過ぎ。
小一時間ほど陽気の中でまどろんでいただろうか。ピクリ、とどんのヒゲが動く。開かれた目の中で一瞬だけ、瞳孔が細く絞られた。直後、めんどくさそうにのっそりと体を起こして、首をぶるっと振るう。そして日当たりの良い窓際から、音も無く床に飛び降りた。
「なーお」
階下へとやってきたどんは、台所の入り口に立ち、低い声で鳴き声を響かせる。中には誰もいない。
ゆっくりと歩を進め、たん、と床から跳びあがる。シンクの縁を中継点にして、奥の窓に前足をかける。そのまま、かしかし、と錠を引っ掻くと、どんの体重に押された窓が開いた。
難なく開けた窓を一瞥した後、どんは振り返る。ジロリ、と金色の視線が床をなめた。
く、と猫の四肢に力が伝わる。
シンクの縁を踏み切って、躍動したどんの身体は、空中にアーチを描く。そしてそのまま、壁際に置かれたテーブルを蹴った。
瞬間、木製の脚を振動が伝って、床を震わせる。しかしその影には、何も潜んでいなかった。
否、どんの定めたターゲットは“すでに飛び出していた”。
マイナスのタイムラグ。
脊椎動物には到達できない、反応の極致。未来を予知したかのような反応速度と即応性。
そのアドバンテージを存分に発揮したのは、黒く、汚く、素早く、しぶとい、この日本において最も嫌われた害虫の一。――ゴキブリである。
テーブルを蹴ったどんは、そのまま身をひるがえす。床には、すでにトップスピードとなったゴキブリがいる。
どんが身を返した方向は、紛れもなくターゲットの進行方向と同一であった。しかして放物線の頂点に至ったどんは、捻りを加え、姿勢を整える。
その姿、槍の如し。揃えた両前足が先端となって、床へと突き刺さる。
まるで最初から知っていたように、あるいは見えざる手によって仕組んだかのように、どんの前足の下にはゴキブリの死骸があった。
迷いのない一瞬の狩を終えて、どんは数歩を進めた。くるりと振り返って、死骸を確認する。
ふん、と鼻を鳴らしつつ、どんは憐れな死骸をまたぐ。向きを調整し、右後ろ足を勢いよく蹴り上げると、大きく弾かれたゴキブリの死骸は開いた窓から飛び出していった。
いくらかの間を置いて、廊下を歩く人の足音がキッチンに届く。パタパタとスリッパの間抜けな音を鳴らして入り口に立ったのは主婦、香澄であった。
「あら、窓開けっ放しだわ。虫がはいっちゃうじゃない……」
閉め忘れと勘違いした香澄は、そのまま窓を閉める。
「なーお」
「ん?どん、お昼ごはんにはまだ早いわよー」
「なー」
「だーめ。寝なおすか、そこらへん散歩してらっしゃい」
しばらく香澄が戸棚を開け閉めするのを眺めていたどんだったが、興味を失ったのか、ふいっと廊下へと姿を消した。
冷蔵庫を開けた香澄は一人、誰へともなくつぶやく。
「んー……五人かー。まあ、足りないことはないわね……私の分は後で適当に済ませればいいとして……」
『今から帰る』という知らせを兄妹から受けて、二人の連れてくる客人をもてなす算段をつける母。
「お掃除の見直しでもしておこうかしら」
入ってきた時と同じ、スリッパの音を響かせて、彼女は台所を出て行った。




