5月4日、さくら公園・ベンチ
『5月4日、さくら公園・ベンチ』
夕暮れ時、赤く染まったさくら公園に、乾いた音が何度も響く。
「ち・が・う・って言っとるじゃろ!何にでも食いつくでないわこのダボハゼが!!」
「すいません!すいません!」
「さっきも言った通り、間合いの内と外をちゃんと意識するんじゃ!ちょっと体を伸ばせば届く、とか欲を出すでない!」
「はいっ!」
どんの指導を受ける、八雲の姿がそこにあった。間にはあれこれとトラブルがあったりしたのだが、この修行ももう三日目になる。
近くに用水路があるこの公園は非常に蚊が多いことで知られており、この時期でも次から次へと蚊が飛んでくる。汗だくになって運動している人間がいれば、なおのことだ。
その上、どんがそこらの茂みを乱して回っているために数が徐々に増えて行く。八雲が撃退するスピードより、蚊が増えるスピードの方が早いのだ。
必死になって周囲に気を配っても、そんなに多くの蚊を一度に把握することはできない。そうこうしている内にどんから注意が飛んだ。
「おい、二匹見失っとるぞ」
八雲が今、目で追っているのが二匹。それ以外に、見失っているものが二匹。把握できないものを注意の外に出さなければ、今見ている蚊すら見失ってしまう。それ故に、
「え、ちょ、お前、わはははは!めっちゃ刺されとるわははは、お前、かゆくないんかってははは!」
「かゆいです!」
見失った蚊を放置すれば、当然それは“蚊に刺され”という結果につながる。すでに数えきないほどの“蚊に刺され”が、露出している首・足首・腕を中心に広がっていた。
「ヒーッ、ヒーッ、ウケるわいこれ。刺されすぎじゃろお前あっははは」
「うう…………」
腹を抱えてゴロゴロと地面を転げているどんを視界の隅に気にしながら、目の前の蚊を仕留めた。
「おっ、一匹殺ったか?ふっひひ、まあその辺でいいわい、残りは虫除けスプレーまいて追っ払え」
「ぜえ、はあ、はい…………」
乱れた息、自分からでている二酸化炭素などの誘引物質を上から塗りつぶすように、シューッと忌避剤を散布する。
“一〇匹を殺すまで動き続ける”というこの稽古を、八雲はすでに一セットこなしていた。そして二セット目の最後の一匹、それが今殺した蚊だった。
バッグの中のスポーツドリンクを取り出して、八雲は脱力しながらベンチに座り込んだ。
トレーニングが一区切りすれば、しばらくの休憩が与えられる。しかし、その間もただ休むのではない。ダメ出しや改善点の指摘タイムなのだ。
「ま、水飲みながら聞いとけ。どこを直すべきかの話じゃな」
そばに寄ってきて、ベンチにお尻をつけながら、どんは隣に座る八雲に話しかけた。
「まずお前、まだまだ上体がめっちゃくちゃブレとる。先に上半身を動かそうとするからそうなるんじゃ。止まってるときはそこそこサマになってきたが、動きながらってなると全然当たってないじゃろ」
「う、は、はい」
「それとな、地面近くを飛んでるやつを足で潰すか、手で潰すか、それとも先に手で煽るのか、判断が一拍遅い。一瞬で判断して即座に動け」
「はい……」
「最後に、何回も何回もし・つ・こ・く言っとるけどな、間合いの外に向かって体を伸ばすな!打点がズレるに決まっとるじゃろボケ!!」
「はいぃ!!」
これまでにも注意されたこと、同じ指摘が繰り返されている。
間合いとは、両腕が届く範囲に加えて一歩を踏み込んだ範囲、つまり一息で確実な攻撃を繰り出せる範囲のことだ。その外に手を伸ばそうとすれば、必然、姿勢が崩れて不確定要素を生み、思ったところを叩けなくなる。
一朝一夕に直せることではない、というのはその通りなのだが、それにしたってここまで言われるのはやはり“センスがない”ということなのだろう。
どんはため息をつきながら、言葉を続けた。
「はー、御凪の部屋で大会要項読んだけどな、明後日じゃろ?明日は休むとして、今日が最後じゃぞ」
今日が最後、八雲は前日の明日まで見てもらうつもりだったので、意外な言葉に動揺する。
「あ、明日は、見ていただけないんですか?」
「筋肉痛で動けませんでしたーとか情けなさすぎるじゃろ。午前はともかく、昼以降は休め」
「うう……、わかりました」
がっくりと肩を落とす八雲だったが、どんは元気づけるように言った。
「まあそう気を落とすな。どうせ完璧にはできんと思っとったけど、思ったより仕上がったわ」
けなしているのか、褒めているのか、境界が曖昧なその言葉に、八雲はとりあえずお礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
「そろそろ息も整ったみたいじゃな。じゃあ最後の一踏ん張り」
「はい!お願いします!」
講義が終われば次は、体への落とし込みになる。言われたことを、実際に体を動かすことで身につけるのだ。
お願いします、の声を始めに、八雲が構えをとる。八雲が動画の川野辺旋風を真似ることで身につけていたものを、どんの監修で改良したものだ。
「まず、攻撃するときの基本は」
二日前に教えたことをどんが問いかけ、教えられたことを八雲が答えた。
「手を合わせる瞬間は、必ず上体が正面を向きます!」
「そうじゃ、そのときの腰の動きは」
一日前に付け加えたことをどんが問いかけ、同じく八雲が答える。
「肩と平行に動きます!ひねりは入りません!」
間違いなく覚え、何度も繰り返した動き。その復習をどんが命じる。
「その場でやってみよ」
「はい!」
パンッ。
「よろしい、では一歩踏み込んで」
「はい!」
パンッ。
「ちょいとブレたぞ、腰の真上に頭があることを意識するんじゃ。もう一回」
やり直すこと数度。踏み込み過ぎ、肩の歪み、その他いろいろを指摘されながら繰り返し、ようやく“良し”がでた。
「まあいいじゃろ、その踏み込みで届く範囲を体に覚え込ませろ。その外へは絶対に手を出すな!絶対じゃぞ!」
「はい!」
「いい返事じゃ……つっても昨日もおとといもおんなじこと言ったしな……」
「ぐっ…………」
そうなのだ。蚊を目で追っていると、つい間合いのことを忘れて飛び込んでしまう。結果、どんの言うとおり両手の位置がズレて蚊を取り逃してしまう。そんなことを、この三日続けていた。
少しだけ場所を変え、木の立っている前で間合いを覚え込む練習を続けた。小休憩を挟みつつ、素振りが一〇〇を数えたあたりで、どんは終わりを言い渡した。
「まあ、時間的にこれで終わりじゃな……。最後に一つ言っておくことがある」
「な、なんでしょうか?」
最後にどんなダメ出しがくるのだろうか、と八雲は身構える。前置きの後の言葉は、必ずダメ出しだと考えてしまうのが、八雲のかなしいところだ。
どんが口を開く。
「自信を持て」
「は?」
「は?じゃないわ!どうせダメ出しが来ると思ったんじゃろ。お前に一番足りないのはそれじゃ!」
「し、しかし……僕はやっぱり、言われたことも修正できないままで……何に自信を持てばいいのか……」
結局、一番口うるさく言われた“間合い”のことは実践で改善できていない。そんなことを口にして、自分で落ち込んでいる八雲を見ながら、どんはしたり顔で言った。
「そう言うじゃろーなーと思ってな、一つ仕込んでおいた」
「え?」
「お前、一昨日からこの公園で、何匹殺した?」
「え、えーと……一日目が、一セット。二日目が二セット。それと……今日も二セットだから……五〇匹、ですね」
「この薄暗がりで、それだけ殺った。屋内と屋外、昼と夕方、大違いじゃ。そんだけ劣悪な条件で五〇も殺ったんじゃ!もう家ん中の蚊なんぞ『ここです』て言いながら飛んでるようなもんじゃ!」
つまり、
「ABAの三拍子、それは“索敵”、“捕捉”、“撃滅”じゃ。その内“捕捉”の一点において、お前は本番より厳しい条件で修行を積んだ」
たとえるなら、マラソン選手の高地トレーニング。より厳しい環境に肉体を慣らすことで、通常より高い効果を得るトレーニング法。
「お前さんがこなした修行は、絶対に嘘をつかん。ここぞというときに、自分が乗り越えた修行を思い出せ。お前が自信を持っていいのは、そこじゃ」
どんの仕込み、それは心の拠り所となる経験を積ませること。そして、本番の環境に対して、“一歩を先んじている”という実感を持たせること。
そのための、過酷に過ぎる荒稽古だった。
「し、師匠…………」
弟子の性格すら見抜いて、目標である大会のことを考えて、稽古の形を用意してくれた師匠に、八雲は感動の涙を禁じ得ない。
「おお、泣け泣け。これで一旦卒業じゃ。報酬は猫缶一ヶ月でよいぞ」
どんの冗談に、泣きながらも笑ってしまう八雲の顔は、もうグチャグチャだった。
日も落ちてすっかり暗くなった公園に、涙声の感謝の言葉が響く。
猫と男子高校生の奇妙な師弟関係、夕暮れ時の修行は、これにて幕を閉じた。
どうも裸地栄太です。そういえば前回の更新、節分でしたね。裸地は特に何もしてないです。
それよりドラクエがやめられなくてほんと困ってるんですけど。面白すぎかよ。
そんな誘惑に打ち勝って今日も予定通りの更新です。
というわけで次回は10日の水曜日、23:59迄の更新です。
ありがとうございました、またお越しくださいませー




