5月3日、ABA研究会・部室 その2
『5月3日、ABA研究会・部室 その2』
「ぜえ……ぜえ……はあ……げほっ」
佐藤八雲は息を切らせながら朝の校門をくぐった。バス停から校門までのごく短い距離を走ってきただけなのに、強烈な疲労感が全身ににじんでいる。
「ひい……ひい……んっ、…………あ゛ー、気持ち悪い……」
身体が酸素を欲して苦痛にあえぎ、貧弱な心肺機能を責め立てる。八雲は膝をつかんで下を向いたままぎゅっと目をつぶった。
高校に入学してからは全ての授業を真面目に受けている八雲は、入学三日目の体育の授業を思い出す。“走る”という行為そのものが久しぶりすぎて転びそうになったあの時ですら、こんなにも苦しくはならなかったのに。
「運動する、って、こんなに、苦しいんだ、はあっ…………」
昨日、日の沈んだ公園で師匠と共に数時間の『特訓』をした。健康や体力のために適度な運動をするのとはわけが違う、力と技術を習得するための、体の酷使。
今の八雲が感じているのは、久しぶりに体を動かしたときの粘つくような筋肉痛とは少し違う、より熱くてより重い痛みだった。
「……行かなきゃ」
疲れが全く抜けないせいで、しばらく寝床から起き上がれなかったのだ。目安の時間を過ぎているので、きっともう部室には八雲以外の全員がそろっているだろう。整わない呼吸を無理やり抑え、顔を起こして歩き出す。
校庭では今日も他の運動部が走りこみをしている。門の傍らに植わった桜の影は、くっきりと葉の形を地面に写し、五月の風に揺れていた。
●
「おはようございまー……なんですか、これ」
ABA研究会の部室には断続的な掃除機の排気音が響いていた。例の、まなびが持ち込んだハンドクリーナーだ。
八雲が怪訝な顔をするのも無理はない。
まなびは部屋の隅に立ち、軽機関銃よろしくハンドクリーナーを両手で抱え、真面目な顔をしてスイッチを入れたり切ったりを繰り返している。それに対して視線の合図を送るのは長机の脇に立つ御凪。片耳の傍に青いノートPCから伸びたイヤホンをぶら下げている。イヤホンは耳の穴に装着せずにコード部分をつまんでいるので一見するとふざけているように見えるが、その表情はいたって真剣だった。
「え、え?」
ジェスチャーで「おはよう」を伝えてくる三年生二人を見て、理解が追いつかないまま後ろ手に扉を閉める。疑問符を浮かべたまま、こっちこっちと手招きをしている香織の正面に座った。
「なんか、掃除機の雑音で蚊の羽音が聞こえなくなるか検証、だって」
手を口に当てて小さな声で状況の説明をする香織。なるほど、まなびは腕を掃除機に巻くように抱えてみたり、ジャージで覆ってみたり、音が変化しそうなあれこれを試している。見た限り、八雲がそこに何か手助けをする余地はなさそうだった。
気を取り直して反対側、部屋の奥に目をやると、そこにはブンブン一号を装着して暴れまわっている光瑠がいる。ゴーグルで隠れて目元は隠れているが、頬を汗が伝っているのが見て取れた。苦戦しているのか、口元は少し歪んでいる。パン!パン!パン!と半ばやけくそのような三連打を放った後、両手で頭の機器を外して、不満げなため息をすぼめた口から吐き出した。
「お!おっはーヤクモン!」
「うん、おはよう」
「お疲れさん。お茶だよー」
挨拶を交わす二人の前に、香織が用意していたお茶を出す。光瑠はそれにお礼を言いながら、出された湯呑を熱そうに持ち上げてフーフーと息を吹きかけた。
八雲は光瑠のその手のひらに視線を走らせる。少しだけためらってから、膝に乗せたトートバッグを握り、光瑠に声をかける。
「あ、あの、夏野さん。手、痛くない……?」
唐突な問いかけに、女子二人がきょとんとした顔で八雲を見つめた。しかし、光瑠はすぐにその得心がいったようで、八雲に両手を見せる。
「痛い!これめっちゃくちゃイッタイよね!」
そう、思いっきり手を叩けば痛い。当たり前だが、これを何度も何度も繰り返していると、本当にシャレにならないぐらい、痛い。こちらに向けられた光瑠の両手のひらは真っ赤になっていた。相当痛むはずだ。
八雲も昨日から手のひらの痛みに悩まされていた。筋肉痛ももちろん問題ではあるのだが、練習を継続する上での障害はむしろこちらの方が大きいぐらいである。
光瑠にも同じ弊害があった、ということを確認して八雲は安堵の息をつく。
「えーと、保冷剤、持ってきたんだ」
トートから取り出した保冷バッグを長机に置き、そこからタオルにくるまれたカチカチの保冷剤を取り出す。練習の合間に冷やすことができれば、と思って自宅から持ってきたのだ。
はい、と差し出された冷え冷えの塊を受け取って、光瑠は喜びの声を上げた。赤くなっていた両手で保冷剤を挟むと、表情を弛緩させる。
「ヤクモンすごい!有能!あああじわじわするうう~」
「ただの思いつきだったけど、役に立ちそうで良かったよ。……僕自身、あんまり役に立てないかもしれないから、せめて色々やらないとって」
「そんなことないってぇ~。よっ、主戦力!」
保冷剤を用意した時、余計な気遣いかもしれないとためらいもした。しかしこれを思いついたのが光瑠なら、きっと深くは考えずにすぐさま実行に移すだろう。そしてそれは、今のこの部にとっておそらく最善だ。
光瑠の称賛で自分が赤面しているのを感じながら、八雲は長机に置かれたブンブン一号を手に取る。
(あと5日間。やれることを、精一杯やっていかないとな)
机の端に置かれたノートPC――まなびの私物であるピンク色のそれからソフトを起動して、ゴーグルを装着した。
●
「…………ごめん、お兄ちゃん。私、」
「ん、なんだ?」
光瑠と八雲が交互にブンブン一号を使用して練習、御凪とまなびが掃除機と他のごちゃごちゃをいじりながら議論、そんな部室内の状況がしばらく続いたあるタイミング、香織がおずおずと御凪に切り出した。
「あのー、なんていうかさ、あれ……私、やること見つかんなくて。あはは……だから、ぼーっとしてるのもなんだし……」
らしくない歯切れの悪さで、言い淀みながら続きを口にする。
「えっと………………帰る、ね」
「?ちょっとまて、香織?」
帰る、と口にしてから手早く荷物をまとめ始めた妹に、御凪は言葉が見つからない。
「か、帰るって……急に、どうした?」
「ほ、ほら!私、お父さんから『学校が休みなら道場に顔を出せ』って言われてるんだよね!お兄ちゃんもあの人に口出されたくないでしょ?私が相手しておくし、それにもしかして空手でなんかABAのヒントがさ!ね!」
畳みかけるように言葉を並べ、御凪の問いかけにも応えず、ペンケースとノートを放り込んだカバンを掴む。あっけにとられているまなびと八雲には目もくれずに、早足で扉まで移動して立ち止まった。
「っ、また、……明日」
中途半端に振り返り、誰とも目を合わせないままのその言葉は少し、震えていた。
どうも、裸地栄太です。
セーフ、セーフです!「年内にもっかい更新」、ちゃんと守ったよ!
このあとがき、本文投稿後に追加してます。あせるあまりに忘れてました。
裸地はこの数時間後、コミックマーケット3日目に出撃です。年末はどこも忙しいかと思いますが、体調にお気をつけくださいね……!
それではよいお年を!次回もまた、おこしくださいませー。




