5月3日、ABA研究会・部室 その1
『5月3日、ABA研究会・部室 その1』
朝、川野辺香織は高校の特別教室棟にいた。
真新しい上靴でゴム底のグリップを効かせながら、キュッキュッと軽快に上階を目指す。
平日なら朝礼が始まっているこの時間。いつもよりゆっくりした朝の空気は、少しだけひんやりとしていて、窓から差し込む陽光と共に変わり目の季節を伝えてくる。
(良い季節になった)
香織は朝が苦手だ。夏も冬も、暑さ寒さが本格化すれば必ず不機嫌な朝を迎えることになる。春か秋のほんの短い期間だけ、寝起きの不快を免れることができる。だから、香織はこの時期が好きだった。
「かおりーん!うおおおおおいてくなあああー!」
ダダダダッ、と香織を追い越した光瑠がそのままの勢いで踊り場に飛び出す。足音から察するに、複数段を飛ばしながら駆け上ってきたのだろう。四角い陽だまりに着地した光瑠は勢いを殺しながら180度のターンでこちらを向く。
「あんた筋肉痛じゃなかったの?」
「無理してんだよ!」
「なんのためにだよ…………」
筋肉痛がひどくて靴の履き替えもままならないと、そう口にしながら昇降口で悶えていた光瑠を放置してさっさと部室を目指して歩き出したのが数十秒前。そして今、あきれ顔で適当にツッコんでから、二人連れだって歩き出す。
いつもの調子でボケ倒す友人を見て今日も一日が始まったと感じる、この距離感が香織は好きだった。
●
ギュイイイイイイイィィィ………………。
部室に騒音が響く。全長四〇センチの家庭用小型掃除機がそのスペックを最大限に発揮して、室内の空気を吸い込んでいる音だ。唸り声をあげる掃除機を眺めて、御凪とまなびは難しい表情を浮かべている。
「……うるさいな」
「……それな」
二人が一言ずつ言葉を交わす。
ちょうどそこに扉が開いて、光瑠と香織が入ってきた。光瑠は騒音に負けないように大きな声で元気に朝の挨拶をする。
「おっはよう!いい朝だ!そしてなんだこの音!」
「おはよー」
「ああ、おはよう」
「おはよ。うるさくしてごめんな?」
三年生二人も挨拶を返すが、すぐに再び机の上へ視線をもどしてしまう。
長机の上には、唸り声を上げる掃除機以外にもゴチャゴチャと道具が積まれていた。
掃除機を停止させたまなびが口を開く。
「ハンディクリーナーの吸引力を利用する方式、人力で減圧して吸引する方式、いずれも問題点はあるんやけど……どう思う?みーくん」
「やはり、掃除機の難点は騒音だな。音が大きすぎる」
どうやら二人は予選大会に持ち込むための道具について話しているようだ。一応、香織も昨日の時点で話は聞いているのだが、二人の会話がどんどん進んでいくので聞きかじり程度にしか理解できていない。
当日、実際に道具を扱うことになるのは“虫が触れない”という致命的ハンデを抱えている自分なので、話は聞いておかなければいけないと思うのだが、
「でもな、継続的に吸引かけられるから確実性はあるんやで?」
「人力だとそれは難しいのか?」
「そうやな……回転式の構造にすれば吸引力の緩急は抑えられるかもしれんけど、ずっと手を動かさなあかんようになるから手ぶれがひどくなるやろうなあ」
「なるほど、狙いがつけづらくなるとそもそも吸引式にする意味がないか」
「ノズルと動力をパイプでつなげて、二人で運用するならその点は解決できるけどな」
「いや、それだと人数を割きすぎだし、急な動きができない。機器トラブルも出そうだ」
「故障を気にするのなら、やっぱりハンディクリーナーに取り付けるアタッチメントの方向で……」
(話にまったくついていけないわ)
香織はABAについて、普通より多くの知識を持っている。祖父のやっていたことに興味があったし、兄が参加する大会を観戦に行くこともあったからだ。
しかし、実際に競技者である御凪とまなびがこれまでに蓄積していたものは彼女の想像を大きく超えていた。まさに、“年季が違う”というわけだ。これでは下手に口出ししても意味がないどころか、説明してもらう分の時間を奪うことになってしまう。
二人の会話についていくことを早々にあきらめた香織が光瑠の方を見ると、なんと光瑠はブンブン一号を装着して自主的に練習を始めていた。
「このっこのっ!死ねー!蚊、死ね!」
先ほどまで筋肉痛で文句を言っていた光瑠が進んで練習を始めたことに、香織は少なからぬ衝撃を受ける。
(ひ、ひーちゃんが自分から真面目に練習を始めている……だと……)
小さな焦りが香織の胸に生まれる。今、この場で最も役立たずなのは、自分ではないだろうか。
●
川野辺香織は、虫が触れない。
多くの現代人がそうであるように、香織にも虫に対する嫌悪感というものがある。人間とは何から何まで違う、種としてあまりにも遠い存在である虫。理解が遠く及ばないものに恐怖するのは、人として自然な反応だ。
しかし、いわゆる“虫嫌い”と呼ばれる人たちのように、「見るのも話題にするのも嫌だ」とは、香織は思わない。生物の授業で気分が悪くなったりはしないし、兄の部屋にある無数の図鑑に恐怖したりもしない。
香織が受け入れられないのはただ一点、接触である。
自分でも理由がわからないのだが、肌に虫が触れるのだけは絶対に嫌だ、と心身が拒絶してしまう。蚊を叩き潰す程度なら平気という人は多いだろうが、香織はそれすらできないのだ。
当然ではあるが、虫が触れないABAプレイヤーなどいない。例えるなら、泳げない水泳選手、自転車に乗れないロードレーサー。戦力になるかならないかの話ではない。
「大会に出る」という方針が決まった今、全部員が残りの数日で最善を尽くさねばならないというのに――――。
一瞬だけぎゅっと目をつぶった香織は、急いで辺りを見渡した。御凪とまなびの二人は道具を広げるばかりで、その手元には飲み物も何もない。それを見つけて、香織はいそいそとお茶の準備を始める。
「お兄ちゃんもまなびさんも、真剣だね」
湯呑を出しながら香織は二人に声をかけた。
「ああ……。あ、すまんな」
「あっ、ごめんな香織ちゃん」
まなびが申し訳なさそうに立ち上がり手伝おうとするが、香織はそれを制止する。
「や、まなびさんそのままで……むしろ、私にできることがあったらなんでも言ってください」
ここでまなびの手をお茶くみに使わせてしまっては本末転倒だ。最も忙しい人員の手をわずらわせてどうするのか。香織はポットから急須へお湯を注ぎ、蓋を抑えて二、三度回す。
なんでも言ってくれと口にしてみたものの、今は自分に頼める用事などないことはわかっていた。皆が忙しくしている中で自分だけ手持ち無沙汰なのが心苦しくて、言うだけ言ってみただけなのだ。
(佐藤君、早く来ないかな…………)
もう一人、来るはずの部員を思いながら、香織は急須を傾けた。
ども、いつもお世話になっております。裸地栄太です。
先週「クリスマス空いてますか?」と聞かれました。歯医者さんに。
空いてるけど、すげえ行きたくない!
年内にもっかい更新する予定です。
次回もまた、おこしくださいませー。




