5月2日、川野辺家 その3
『5月2日、川野辺家 その3』
八雲はトイレの前で固まっている。
十数秒前、『いけすかんガキじゃ』と悪態をつかれた。猫に。
人間でもなかなか見ないレベルで尊大な態度の猫に、フンッと鼻で笑われた。
そしてその猫が入って行った部屋は、どうやら香織の部屋らしい。少し開いたドアの隙間から、声が漏れ聞こえている。御凪の部屋に戻るには、そのドアの前を通らなければならない。八雲はゆっくりと、足音を立てないように歩を進めた。
女の子の部屋の会話を立ち聞き、となれば抵抗はある。しかし、いかんともしがたい好奇心にあらがうことはできなかった。声が聞き取れるギリギリの位置で、八雲は立ち止まる。
「どーんーよ~しよ~し、いい子だねー今日もかわいいねー」
「うにゃあ~ん、かおりちゃーんそこ気持ち良いにゃ~んもっとなでてにゃ~ん」
「よしよしよしほれ~」
「ふにゃああああん」
もうなにがなんだかわからない。
どちらかといえばクールな印象で、光瑠に対しては常に容赦ないツッコミを繰り出す香織。これまでの彼女からは想像がつかない、テンション高めな甘い声が聞こえてくる。
同時に、ダンディな声が一オクターブ高く、まさに猫なで声といった感じで聞こえる。調子はまるで違うが、間違いなく先ほどの悪態猫と同一の声だ。
少しだけ開いたドアからは声しか聞こえないが、向こう側は容易に想像できた。甘える猫と甘やかす飼い主、その構図である。だが声だけ聞くと、大人の男が甘え声を出しているようで、はっきり言って気色悪い。
「にゃあんかおりちゃん、今日はお客さんがいっぱい来ていてこわいにゃあ~」
「ごめんねー、どん。学校の友達と大事なお話をしなくちゃいけないんだー」
「にゃにゃ、それはしょうがないにゃあ。がまんするのにゃあ~」
「どんはほんとにいいこだねえーよしよし」
「うにゃああん」
知ってはならないことを知ってしまった気がしてきた八雲は、立ち聞きの気まずさも手伝って、急いでその場を離れようとする。
「うにゃ!だれか扉の外にいるにゃ!」
「えっ?」
(や、やば……、うわ!)
あせる八雲は足をもつらせてその場に倒れ伏せてしまった。
きいっとドアが開く。驚いた顔の香織と逃げ遅れた八雲の視線が、ドア越しに重なった。
「さ、佐藤……くん?」
「にゃああ!こいつ、ぼくが部屋に入る時にも廊下にいたにゃ!きっと香織ちゃんの部屋をのぞいてたにゃ!」
「え……?」
信じられない、という表情で香織が八雲を見る。
「ち、違……!そんなことは決して……ち、ちょっと立ち聞きはしてましたごめんなさい!でものぞいてない!のぞいてはいない!そんな度胸は僕にはありません!」
全否定すればいいものを、バカ正直に立ち聞きはしていたと白状するところが八雲の八雲たる所以である。立ち聞きものぞきも、どちらも似たようなものだ。
とはいえやはり、のぞきのほうが嫌悪感は上だろう。八雲としてはちゃんと否定したいところである。状況的には、何を言っても説得力皆無なのだが。
しかし、弁解にもなっていないその言い訳が逆にどんの怒りを買ったらしく、
「嘘をつくなよこのゲスめが!!」
「ひいいぃ!」
毛を逆立て、ドスのきいた声でこちらをなじりながら憤怒の猫がずんずんと近づいてくる。すさまじい怒りに少しの間、語尾を忘れてしまったようだ。小さな体に似合わぬ迫力で、八雲は完全に気圧されてしまう。
しかし、それを遮るものがある。
「ちょっと待って。落ち着いて」
ひょいっと茶色の毛並みを持ち上げたのは香織だ。両手でどんの腹を掴んでしゃがみ、倒れたままの八雲の前に突き出す。勢いを殺されたどんは二、三度バタバタと暴れた後でおとなしくなる。
「お二人さん」
「ひ、ひゃい」
「に、にゃあ」
一呼吸を置いて、
「すっごい自然に会話してるけどさ、佐藤君はどんの言葉、わかるの?」
いまさらな疑問を口にした。
●
「つまり、廊下でしゃべる猫を目撃した君は、漏れてきた私たちの会話がどーしても気になった、と」
八雲は室内へと通され、床に正座している。それに対する香織は椅子に腰かけ、膝にどんを乗せている。
「はい………………」
「そしてのぞきをした?」
「のぞいてないです!」
「でも立ち聞きは?」
「しました………………」
はあ、とため息をついた香織は右手を自分の額に当てる。しばらく考える間を置いて、少しだけ乱れた前髪をスッと整えてから、オホンとわざとらしい咳ばらいをして真面目な表情を作った。
「そのバカ正直さに免じて、今回は不問にします」
香織から下された判決を聞き、八雲は大きな息を吐いて冷や汗をぬぐう。しかし、納得がいかないのはどんだ。
「にゃにゃ!?そんにゃのだめにゃ!断罪が必要にゃ!断・罪!」
「いいんだよ、どん。そりゃしゃべる猫がいたら気になるよ」
「にゃ……でもにゃ……」
「それに佐藤君の、そんな度胸は僕にはありませぇん!って弁解が、……悪いけど、すっごく腑に落ちたっていうか。あははっ確かに、って思っちゃった」
思い出したら笑えてきた、と真面目な表情を崩して口を押さえている。八雲の心に突き刺さる判決理由である。
「は、はは……納得してもらえたようで、なによりだよ……うん…………」
「こんのクソガキ、調子に乗るな……いや、乗るにゃよ」
「どーん、かわいい顔してそんなこと言ったらめっ!だよ」
「う、うにゃーん」
このどんという猫は、世間一般の感覚でいうと相当目つきの悪い部類に入るのだが、猫好きのフィルターを通せばやっぱりかわいいらしい。香織からすれば、飼い主のひいき目もあってなおさらなのだろう。先ほどから、膝の上のどんを撫でる手は止まらない。
やさしい目をした香織は気持ちよさそうなどんの声を聞いてふふ、と笑う。コショコショと額を指先で撫でて、「ね、それよりさ」と話題を変えた。
「私以外でどんの言葉がわかる人、初めてなんだ」
「え、そう……なの?」
「うん。ほかの人が聞いても、うにゃうにゃ言ってるだけで全然わかんないらしくて。変だと思われるから、私とどんだけの秘密」
最初のどんの言葉があんまりな悪態だったのは、どうせ伝わらないからという理由だったらしい。一人で納得する八雲をよそに、香織の発言は終わらない。
「佐藤君。許す代わりにってわけじゃないんだけど、さ」
「は、はい!」
改まった呼びかけに八雲は背筋をのばした。何らかの“お願い”がくる。
“許す代わりにってわけじゃない”とは言うものの、それを口に出したら実質これが代償のようなものだ。返答如何では進退が決まる。何を“お願い”されても、八雲はYesと答えざるを得ない。
あのね、と前置きして、香織は“お願い”を口にした。
「どんの、友達になってあげて?」




