七日目・ズボン
べたべたのクリームパンを何とか飲み込んだ、そのあと。
「前原さん、何しているんですか?」
先ほどから部屋の隅のほうでなにやらごそごそとしている前原さんの背中に声をかける。
「ん、いや…」
返ってきたのは濁らせた言葉。
何か隠し事でもあるのだろうか。だったらもっと違うところでするだろうけど。
不思議に思いながらブルータスとじゃれていると、濡れたズボン片手に明日香ちゃんが部屋に帰ってきた。
「彼シャツならぬ、彼ズボンですね」
僕の貸した予備ズボンをはいて明日香ちゃんは冗談交じりに言った。
さすがにずぶ濡れたものを身に着けていると風邪をひくだろうということでそうした。他意はない。
彼シャツか。彼シャツね。彼女がいなかった僕には縁のない単語である。
「でも、まあ…こればっかりは美空に感謝かな…」
とりあえず詰め込んどけ主義なあいつの性格が役にたった。嫌な気分ではあったけれど。
「裾は折って、ベルトの代わりにひもをつけるとして。――どうですかね?」
「うーん、ズボンだからねえ」
「それもそうですね」
そんなに変わらないよネーと二人で言い合って、ふと明日香ちゃんが前原さんのほうに目をやる。
彼はまだ気づいていないのかいつのまにか移行していたリュックの荷物点検に夢中だ。
「おじさん」
「ふぇ!?」
いやなんですかその声。
なにやら理解できていない顔で僕の顔を見るので小声で「ズボン、どうですかって」と助け舟を出した。
「あ、ああ、ズボン? ……そうだな」
「……」
なんとも言えない時間が僕らの間を通過していく。
どうしよう。
明日香ちゃんは視線をさまよわせた後に小さく肩をすくめた。
「軽い気持ちで聞いたので、むしろそんなに悩むほうがドン引きっていうか…」
「明日香、選ばせてやる。どんな死に方がいい?」
「はいはーい落ち着いて落ち着いてー」
慌てて止めに入る。冗談だろうけど沸点が低いな前原さん。
それとも明日香ちゃんが相手だからなのか。そんなことはどうでもいいとして。
前原さんは何か考えたそぶりを見せた後に、本当に小さく。
「……似合うんじゃねえか?」
それだけ言うとがりがりと頭をかき、ぶつくさと何事か言い訳している前原さん。
どう見ても照れています、本当にありがとうございました。
僕まで照れてきてしまうじゃないか。
言われた当の本人である明日香ちゃんはぼかんとしている。
先ほどとはまた違った沈黙が訪れて、慌ててそれをかき消すように前原さんは叫ぶ。
「あーもう! 移動するぞ移動!」
リュックを背負い、勢いよく立ち上がる。
僕は僕で苦笑いしながら荷物を手に取った。
明日香ちゃんは横を通り過ぎる前原さんを見送り、僕に促されてようやく動き始める。
そんなこと言われたのが本当に意外だったようだ。
明日香ちゃん側からすれば軽口が返ってくるぐらいしか思わなかったのかも。
「…ありがとうございます?」
「知らねーし」
前原さんの背中に声をかけた彼女は、口元を手で隠していた。
多分、その下ではこっそりと笑っているのだろう。
次回予告:大ピンチ(明日香の精神が)