夜明け
予想していた強い衝撃は来なかった。
代わりに、全身が大量の藁の中に沈み込む。
状況を把握できないまま顔を上げると、御者台から聞き慣れた声がした。
「ちょっとマリー! ここにいろってそういうこと?! 三階から飛び降りるなんて聞いてないよ!」
「言ったら止めるでしょ! 一番早いじゃない!」
「そりゃ止めるよ! 確かに早かったけど!」
……なんとなく察した。
少なくとも馬車が落下地点にいたことは偶然ではないようだ。
がたん、馬車が揺れ、走り出したのがわかった。
ようやく呼吸を整える。
冷たい外気に、思わず身を縮めた。
「これ着てこれ!」
マリーが厚手の外套を被せてくる。
薄着だった体に温かさが広がった。
ありがたい。
改めて、壁に打ちつけた背中の痛みや、短剣を受け流したときの腕の鈍い痺れを自覚する。
喉にもまだ圧迫された感覚が残っていた。
「ミズナラ大丈夫? ケガない?」
「大した怪我はない、問題ない。ゼロは?」
「もう本部に戻ってる。ミズナラの戻りを待ってるよ」
待っているとは言っても、そんなに大袈裟に迎えられることはないだろう。
ゼロは僕が戻ることを疑っていないはずだ。
崩れた髪を直し、服についた土埃を払っていると、マリーが突然抱きついてきた。
まだ汚れているからとやんわり離そうとしたが、彼女は顔を押し付けて離れない。
「ほんと、良かった。心配した」
「……ちゃんと、戻るって言ったでしょう」
落ち着かせるように頭を優しく撫でる。
結果としてマリーに助けられたが、実際はあのタイミングで来てもらえなければかなり厳しい状況だったと思う。
だが、それはそうとして。
マリーの肩を優しく掴んで離し、目線を合わせて正面から見据えた。
「マリー、ゼロからどこまで指示されてた?」
「え?」
「僕に何かあったら助けに入れって、たぶん言われてたと思うんだけど」
「うん」
「ゼロはきっと危なくなったら退けとも言ってたはずだよ」
「……うん」
「置いて逃げてって、言ったよね」
バツが悪そうに下唇を噛んで上目遣いに見てくる。
「あの男は強かった。……正直、あのままなら僕は逃げられなかった。マリーまで捕まってしまう可能性もあった。かなり危険だった」
「だって……」
「それに、僕を抱えて三階から飛び降りるなんて。馬車を置いていたとしても、マリーだって怪我をしていたかもしれない。僕はマリーが怪我するのは嫌だよ」
マリーは歯切れ悪そうに、モゴモゴと言い訳を探していた。
「だって……ミズナラ女装しても綺麗だったし、手籠めにされてたらどうしようって」
ん。
なんか不穏な言葉が聞こえた。
「ミズナラが手籠めにされてあんなこととかこんなことされてボロボロになってたらどう慰めていいのかわからないなって」
「……そんな真顔で手籠めとか連呼しない」
滅多につくことのないような、大きくて長いため息が意図せず漏れたが、出るに任せた。
「でも本当に良かった。ミズナラが無事で」
翳りのない笑顔でそんなことを言われたら、それ以上怒れない。
「ま、帰ろうよ。リンデンに」
頃合いを見計らったように、レミーが振り返って助け舟を出してくれた。
「僕、寝てないから少し寝ていい? さすがに疲れて」
自分でも珍しいと思いながら大きく欠伸をして、藁を寝床らしく整えた。
「あたいの膝枕でもいいよ!」
マリーが藁が飛び散る勢いで膝を叩くが、丁重に遠慮する。
「マリーも寝てないでしょ。寝ときなよ。ぼく、待ってる間にちょっと寝たから」
そう言いながらも若干眠そうにレミーが目を擦っている。
見上げた空はまだ暗く、星が瞬いていた。
リンデンに着く頃には空が白み、星も見えなくなっているだろう。
やっと、長い夜が明けそうだった。




