第五話 記録されていない名前
ミナは眠れなかった。
机の上。
開いたノート。
そこには今日の記録が残されている。
『対象Y』
『記憶ではなく、本質が残存している可能性あり』
その文字を見つめる。
観測界なら笑われるだろう。
本質。
そんな曖昧な言葉は使わない。
観測界では全てが定義される。
数値化される。
分類される。
記録される。
だからこそ観測界なのだ。
だが。
今日のユウを見ていると、
それ以外の言葉が見つからなかった。
記憶ではない。
知識でもない。
もっと深い何か。
それが残っている。
ミナはノートを閉じた。
その瞬間だった。
ページの隙間から
一枚の紙が落ちた。
白い紙。
いや。
白かったはずの紙。
そこに文字が浮かんでいた。
ミナは凍りつく。
ありえない。
その紙は持っていない。
存在しないはずだ。
それは降下前。
観測界で使われる任務指令書だった。
忘却の門を通る前に回収されたはず。
なのに。
そこに文字がある。
震える指で拾う。
読む。
『降下任務』
『対象』
そこから先が読めない。
黒く潰れている。
ノイズのように。
ミナは眉をひそめた。
おかしい。
観測界の文書が壊れることはない。
記録は絶対だ。
それが観測界の根幹。
なのに。
対象名だけが読めない。
まるで。
最初から記録されていなかったかのように。
その時。
紙の端に小さな文字を見つけた。
『Y』
ミナの息が止まる。
Y。
ユウ。
悠真。
いや。
違う。
これは名前ではない。
記号だ。
観測界では対象を記号で管理する。
つまり。
ユウは最初から
「対象」だった。
派遣者ではなく。
調査者でもなく。
対象。
「そんなはず……」
ミナは立ち上がった。
頭の中で何かが繋がる。
陽明の表情。
降下前の沈黙。
あの一瞬の驚き。
そして。
「お前たちは自分を調べに行く」
という言葉。
違う。
あれは三人に向けた言葉ではない。
ユウに向けられていた。
その可能性が浮かぶ。
その時だった。
窓が揺れた。
風ではない。
何か別の力。
ミナは反射的に外を見る。
夜空。
そして。
そこにいた。
黒い影。
人の形をしている。
だが人ではない。
観測界でもない。
管理界でもない。
見たことがない。
それは校庭の中央に立っていた。
こちらを見ている。
いや。
見ていない。
もっと遠くを見ている。
世界そのものを。
そんな視線だった。
ミナは窓を開けた。
冷たい空気が流れ込む。
だが。
次の瞬間。
影は消えた。
何も残らない。
ただ。
一つだけ。
校庭の地面に黒い文字が残っていた。
『まだ思い出すな』
ミナの全身に鳥肌が立つ。
誰に向けた言葉なのか。
考えるまでもなかった。
ユウだ。
そして。
それを書いた存在は、
ユウが思い出してはいけない理由を知っている。
ミナは初めて理解した。
この任務は。
観測界の任務ではない。
もっと前から始まっている。
観測界が生まれる前から。
もしかすると。
世界そのものが始まる前から。
そんな予感がした。
そして翌朝。
何も知らないユウは、
いつものように欠伸をしながら教室へ入ってきた。
その胸の奥に、
誰も知らない秘密を抱えたまま。




