第三話 案内人
最初に目覚めたのは、ミナだった。
白い天井。
知らない部屋。
窓から差し込む朝の光。
鳥の声。
人間界。
ミナはゆっくりと身体を起こした。
違和感はあった。
重い。
観測界の身体とは違う。
呼吸。
鼓動。
重力。
空腹。
どれも初めてではない。
だが久しぶりだった。
「成功……したのね」
小さく呟く。
記憶は残っている。
陽明。
観測界。
忘却の門。
全部覚えている。
だが。
少しだけ欠けていた。
何かが薄い。
輪郭がぼやけている。
完全な保持ではない。
人間界へ降りる代償。
ミナは窓の外を見た。
春だった。
桜が咲いている。
風が吹いている。
揺れている。
観測界では見られない光景。
なぜだろう。
少しだけ美しいと思った。
その瞬間だった。
胸の奥が痛んだ。
「……?」
理由が分からない。
観測界では感じたことがない感覚。
寂しさ。
それに似ていた。
ミナは目を閉じる。
思い出す。
悠真。
陸央。
二人の顔。
だが。
もう二人は存在しない。
今いるのは。
ユウ。
リク。
そのはずだった。
数日後。
ミナは高校へ転校した。
任務のため。
普通の学生として。
教室の扉を開く。
担任が紹介する。
「今日から来た水那さんです」
ざわめき。
人間たちの視線。
興味。
好奇心。
観察。
それらが一斉に向けられる。
ミナは少しだけ不快だった。
観測される側。
こんな気分だったのか。
その時だった。
教室の後ろ。
一人の男子生徒が欠伸をした。
無気力そうな顔。
窓際。
だが。
ミナは動けなくなった。
いた。
見つけた。
ユウ。
いや。
悠真。
正確にはその両方。
だが。
彼は何も覚えていない。
ミナが誰かも。
自分が誰だったかも。
世界の構造も。
全部忘れている。
そのはずだった。
なのに。
ユウは突然こちらを見た。
視線が合う。
ほんの一瞬。
その瞳が揺れた。
そして。
小さく首を傾げた。
まるで。
どこかで会ったことがあるような。
そんな顔だった。
ミナの心臓が大きく鳴った。
ありえない。
記憶は消えている。
完全に。
そのはず。
そのはずなのに。
「……知ってる?」
ユウが呟いた。
誰に向けた言葉でもない。
独り言。
だが。
ミナには聞こえた。
「え?」
隣の生徒が聞き返す。
ユウは首を振る。
「いや」
「なんでもない」
ミナは視線を逸らした。
胸が騒ぐ。
計画と違う。
何かがおかしい。
忘却は完璧ではなかったのか。
それとも。
もっと別の理由があるのか。
その時。
教室の反対側から声がした。
「おーい」
元気な声。
振り向く。
リクだった。
いや。
陸央だった男。
彼もまた。
全部忘れている。
だが。
何も違和感なく笑っている。
ミナは少し安心した。
少なくとも。
こちらは正常だ。
そのはずだった。
だが。
リクがこちらへ歩いてくる途中で、
突然立ち止まった。
そして。
不思議そうな顔をした。
「……あれ?」
「どうした?」
友人が聞く。
リクは首を傾げる。
「いや」
「今」
一拍。
「三人いた気がした」
教室が静かになる。
ミナの呼吸が止まった。
三人。
まだ揃っていない。
まだ任務も始まっていない。
なのに。
なぜ。
二人は。
"三人だったこと"を感じているのか。
その時。
ミナは初めて理解した。
陽明が言っていた意味を。
これは。
世界を調べる任務ではない。
自分たちを調べる任務なのだ。
そして。
何かが既に始まっている。
誰も気づかない場所で。
誰も知らないうちに。
世界のどこかで。
揺れが生まれている。
ミナは静かに席へ座った。
案内人として。
観測者として。
そして。
これから訪れる未来を知る唯一の存在として。
だが。
その未来は。
彼女が知っているものとは、
少しずつ違い始めていた。




