第二話 忘却の門
落下は、音もなく始まった。
青い光が遠ざかる。
観測界。
管理界。
可能性界。
三つの世界を繋ぐ降下路。
悠真と陸央は前を落ちていた。
いや。
もう「落ちている」という表現も正しくない。
存在そのものが変換されている。
そう言った方が近い。
ミナは二人の後ろを進んでいた。
陽明から与えられた最後の権限。
記憶保持。
本来なら許されない特例。
だからこそ責任は重い。
前方で悠真が振り返った。
「なあ」
相変わらず緊張感がない。
「本当に全部忘れるのか?」
ミナは頷く。
「そう聞いている」
「もったいないな」
悠真は笑う。
「せっかく覚えたのに」
その言葉に、
陸央が呆れた顔をした。
「覚えた知識が重要なのではない」
「経験が重要だ」
「記憶を失っても本質は残る」
悠真は肩をすくめた。
「お前らしい答えだな」
だが。
ミナは知っていた。
実はそれこそが今回の実験の核心だった。
記憶を失っても、
本当に本質は残るのか。
それとも。
人は記憶によって作られているのか。
観測界でも答えの出ていない問い。
だから三人が選ばれた。
いや。
正確には違う。
悠真が選ばれた。
ミナはそう思っていた。
あの男だけは昔から異質だった。
観測者でありながら、
観測を疑う。
確定者でありながら、
確定を嫌う。
管理界でも評判だった。
「あいつは危険だ」
そう言う者もいた。
だが陽明は違った。
「あいつが必要だ」
そう言っていた。
ミナはその理由を知らない。
だが。
これから知ることになる。
やがて前方に巨大な門が現れた。
白い門。
世界と世界の境界。
忘却の門。
そこを通過した者は、
過去を失う。
名前を失う。
役割を失う。
記憶を失う。
そして。
人間になる。
陸央が立ち止まる。
珍しい。
迷っている。
「どうした」
悠真が聞く。
陸央は門を見つめたまま言った。
「もし」
一拍。
「戻れなかったらどうする」
沈黙。
初めてだった。
彼がそんなことを言うのは。
悠真は少し考え、
そして笑った。
「その時はその時だろ」
「どうせ全部忘れるんだから」
陸央は苦笑した。
「確かにな」
二人らしい。
ミナはそう思った。
だが。
胸の奥に、
言いようのない不安が残っていた。
なぜだろう。
任務は何度も行われている。
降下も珍しくない。
それなのに。
今回だけは違う気がする。
門の向こうから、
何かが呼んでいる。
そんな感覚。
その時だった。
不意に声が聞こえた。
誰の声でもない。
だが確かに聞こえた。
「残せ」
ミナは振り返る。
誰もいない。
悠真も。
陸央も。
気づいていない。
「残せ」
再び聞こえた。
小さな声。
遠い声。
だが不思議と懐かしい。
それはまるで、
未来から届いた声のようだった。
ミナは目を閉じた。
そして。
誰にも聞こえないように呟いた。
「……何を?」
答えは返ってこない。
だが。
その問いは、
後に彼女自身が抱えることになる。
何を残すのか。
何を消すのか。
何を選ぶのか。
そして。
何を選ばないのか。
悠真が門へ歩き出す。
陸央も続く。
ミナは最後に一度だけ振り返った。
遥か彼方。
青い光の中心。
観測界。
もう戻れない場所。
その時。
陽明の最後の言葉が脳裏をよぎった。
「お前たちは自分を調べに行く」
その意味を。
まだ誰も知らない。
三人は忘却の門をくぐった。
光が弾ける。
名前がほどける。
記憶が砕ける。
悠真はユウになり。
陸央はリクになる。
そして。
ミナだけが、
すべてを覚えたまま降り立つ。
人間界へ。
不完全な世界へ。
約束の場所へ。




