第十六話 最後の授業
その日。
学校では珍しく自習になった。
担当教師が休み。
教室は騒がしい。
誰も授業などしていない。
スマホ。
雑談。
笑い声。
ありふれた午後。
だが。
ユウだけは違った。
窓の外を見ていた。
雲が流れている。
何も変わらない風景。
なのに。
最近ずっと感じる。
世界が薄い。
嘘ではない。
本物だ。
ちゃんと存在している。
だが。
何か一枚向こう側がある。
そんな感覚。
その時。
教室の扉が開いた。
誰も気にしない。
教師だと思った。
だが。
違った。
知らない男だった。
教師ではない。
生徒でもない。
スーツ姿。
年齢も分からない。
普通の顔。
なのに。
誰も気づかない。
誰も見ていない。
まるで存在していないように。
男は静かに教壇へ立つ。
そして。
黒板に文字を書く。
チョークの音。
カツ。
カツ。
カツ。
その音だけが教室に響く。
ユウは目を見開く。
リクも。
ミナも。
見えている。
三人だけが。
黒板には一文。
『世界が一つだったら幸せか』
男は振り返る。
そして笑う。
どこかで見た顔。
だが思い出せない。
「授業をしよう」
静かな声。
誰も聞いていない。
教室は騒がしいまま。
それなのに。
三人にははっきり聞こえる。
「答えなくていい」
男は言う。
「考えるだけでいい」
Kと同じだ。
ミナはそう思った。
答えを求めない。
問いだけを置く。
男は続ける。
「世界が一つなら争いは減る」
黒板に書く。
「迷いも減る」
さらに書く。
「悲しみも減る」
三つの文章。
どれも正しい。
男は頷く。
そして。
チョークを置く。
「では」
一拍。
「失われるものは何だ」
沈黙。
初めて教室が静かになった気がした。
いや。
実際には騒がしい。
だが。
三人の周囲だけが静かだった。
ユウは答えられない。
リクも。
ミナも。
男は微笑む。
「正解はない」
その言葉で。
ユウの胸が震えた。
正解はない。
観測界ならあり得ない。
管理界ならあり得ない。
人間界でも珍しい。
だが。
Kなら言いそうだった。
男は窓の外を見る。
流れる雲。
夕陽。
そして。
小さく呟く。
「だから世界は美しい」
その瞬間。
ユウの頭に、
大量の映像が流れ込んだ。
消えた未来。
選ばれなかった世界。
出会えなかった人々。
語られなかった物語。
無数。
無限。
そして。
その全てが、
確かに存在していた。
胸が痛い。
苦しい。
悲しい。
でも。
どこか愛おしい。
その時。
男が最後の問いを投げた。
「君たちは」
三人を見る。
まっすぐ。
優しく。
「何を残したい?」
世界が止まる。
その問い。
それこそが。
Kが残した問いだった。
男は笑う。
そして。
姿が薄くなる。
消える。
まるで最初からいなかったように。
最後に。
黒板の文字だけが残った。
『思い出さなくていい』
その下に、
もう一行。
『自分で選べ』
放課後。
誰もいない教室。
黒板は真っ白だった。
文字など残っていない。
だが。
三人だけは知っていた。
今の授業が夢ではないことを。
そして。
ミナはようやく気づき始めていた。
あの男。
Kではない。
だが。
Kを知っている。
いや。
もっと近い。
もしかすると。
Kが消えたあと、
残された側の存在。
約束を見届ける者。
そんな気がした。
その夜。
観測界の封印庫で、
二本目の亀裂が走る。
そして初めて、
扉の向こうから光が漏れ始めた。
長い長い約束が、
終わりに近づいていた。




