織田家の家臣になる決意をする
永禄11年(1568年)、織田信長が室町幕府15代将軍、足利義昭を奉じて、上洛を果たした。
六角義賢は三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶、織田軍と戦った。
しかし観音寺城の戦いで大敗を喫し、東山道沿いの観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した。
この時に、蒲生賢秀は決意した。このまま六角の下についていても、先は無いと。
織田信長と手を組もう。おきりと、鶴千代も、これに賛同した。
六角義賢「何?蒲生が信長に寝返っただと!?」
それから程なくして、鶴千代は元服の時を迎えた。
鶴千代とは、この俺、天馬氏郷のことだ。
元服式の時を迎える。俺たちは、織田信長が新たな拠点にした、岐阜城に呼ばれた。
元服式には、蒲生家一同と、織田軍の重臣たちが集められた。
鶴千代は、そのど真ん中にいる。
鶴千代は周囲を見回した。父と母の姿を、チラッと見た。
真っ正面には、織田信長がいる。
織田家の重臣たちが並んでいる。
佐久間信盛がいる。柴田勝家がいる。
丹羽長秀がいる。
そして、あの男、木下藤吉郎がいる。
信長が、俺のところに近寄る。信長自ら、烏帽子親になることを進言したという。
信長は俺に、烏帽子を被せた。
信長「鶴千代、これよりお主は、忠三郎賦秀と名乗るがよい。」
鶴千代「ははーっ!」
初めて信長の肉声を聞いた。信長は、なんとも言えない威圧感と、威厳に満ち満ちていた。
蒲生氏郷(幼名:鶴千代)の元服は、永禄12年(1569年)に岐阜で行われました。
主君である織田信長が自ら烏帽子親を務め、元服後は「忠三郎賦秀」と名乗りました。(のちに「氏郷」へ改名)。
織田信長が自ら烏帽子を被せたというくらいだから、よほど見込まれていたということだろう。
そうに違いない。
最初の領地は、近江国日野の、日野城(中野城)。石高は6万石ほど。
これまでの領地をそのまま引き継いだだけなのだが、この領地が正式に蒲生家のものになったわけだ。




