領地経営で競い合う戦国
永禄11年(1568年)、織田信長が室町幕府15代将軍、足利義昭を奉じて、上洛を果たした。その年に、蒲生家は織田家の家臣となっていた。
刀、槍、弓矢で戦う時代。それが戦国。
しかしながら、あえて言おう。領地を奪い合うために殺し合うのは、終わりにしよう。
どうせ競い合うなら、領地経営で競い合おうと。
とはいえ、まず最初に行うべきことは、
家督を継いで、自らの領地を確保することだ。全てはそれからだ。
幼名は、鶴千代といった氏郷。家督を継ぐには、まずは元服することだ。
蒲生氏郷(幼名:鶴千代)の元服は、永禄12年(1569年)に岐阜で行われました。
主君である織田信長が自ら烏帽子親を務め、元服後は「忠三郎賦秀」と名乗りました。(のちに「氏郷」へ改名)。
織田信長が自ら烏帽子を被せたというくらいだから、よほど見込まれていたということだろう。
そうに違いない。
最初の領地は、近江国日野の、日野城(中野城)。石高は6万石ほど。
また、タブレットで調べてみることに。
知らないことは、すぐタブレット頼み。
それだけ、何にも知らなかったんだな、この人物については。
蒲生氏郷 日野 領地経営
タブレットで調べた結果
蒲生氏郷は故郷・近江日野(現在の滋賀県日野町)の統治において、織田信長から学んだ「楽市楽座」などの商業政策をいち早く導入しました。地元の近江商人を保護・育成して領地の産業を活性化させ、これが後の領国経営の基盤となりました。
「楽市楽座」は、聞いたことがあるな。織田信長が編み出した商業政策を、蒲生氏郷も取り入れて、自らの領地にもいち早く導入したということか。
これが、天馬氏郷=蒲生氏郷の、領地経営の最初の一歩になるのだった。
これなら、天下を統一しなくても、分国制のままでも、それぞれの領地の有力な戦国大名が、それぞれの領地を治めて、交流を図っていく、そういう形にしたって良かったのでは?などと、勝手に思ったりした。
誰だって、天下を統一して、自分がその頂点に立ちたいのだろう。
そして、日野は大いに発展することになる。正直な話、短期間でここまで発展するとは、俺自身も思っていなかったことだった。これは夢か幻か?
いや、夢ではない。これが現実だ。
俺は、ほっぺをつねってみた。
痛い・・・。やはり夢ではなく現実なのだ。




