三方ヶ原の戦い
時は、1572年。ここは甲斐国、武田信玄の館。
武田信玄「おのれ信長め。延暦寺を焼き討ちにするとは、やつは鬼か?
平安時代以来、権勢を振るってきた僧兵部隊も全滅か…。
ならば、この信玄が、その鬼を退治してくれようぞ!」
武田信玄は、上洛することを決意した。
越後の上杉は動けない。相模の北条氏康は死んだ。子の氏政とは手を組んだ。
徳川家康「何!?武田信玄が攻めてきたと!?」
徳川家康は、三方ヶ原で武田信玄の騎馬隊を迎え撃つ。
しかし、相手は戦国最強と呼ばれる武田の騎馬隊。その圧倒的な強さの前に、家康の軍勢は敗れた。
三方ヶ原の戦いは、徳川家康が唯一、敗北の恐怖を味わった戦とされる。
その報告は、信長にも伝えられ、近江の日野にいる、蒲生氏郷にも伝えられた。
「何!?家康殿が、三方ヶ原の戦いで敗れたと!?」
家康が、三方ヶ原で敗れたということは、間違い無く、武田の騎馬隊は近江の日野まで進軍してくる。
今のうちから、戦いの準備をしておかなければならない。
いや、もし武田の騎馬隊とまともに戦って、命を散らすことになったとしても、
それはそれで、武将の誉れか。
しかし、武田信玄は攻めてこないまま、
1572年は年の瀬を迎え、1573年を迎えた。
1573年の元旦。道の駅では、餅つき大会が行われ、無事に新年を迎えることができた祝いの意味を込めて、餅を食べた。
その後も、武田信玄は攻めてこない。
冬が去り、春になっても、信玄は攻めてこなかった。
さすがに、いつまでたっても攻めてこないことを不審に思い、信長様も様子を探らせていたようだ。
すると、なんということか。武田信玄が、死んだという。
武田信玄は、自らが死んだことを、3年間、隠しておくように言い残したのだという。
これでひとまず、武田信玄と直接戦うことは無くなったが、武田の騎馬隊は、ほぼ健在といっていい。
人数も多いが、それだけではなく、一人一人が、戦に長けた猛者揃い。
武田家の家督は、武田勝頼が継いだという。
織田信長「このような形ではあるが、天は我に味方した。
義昭のいる、京を攻める。者ども参れ!」
もちろん、蒲生氏郷も、これに同行することになった。




