ホルン:痕
繋いだ手が離れていく。私はそれを仕方ない事だと受け入れている。
母はよく、疲れた目で笑ってみせた。眠そうに自分の顔を叩いて車を運転しているのを、今でも覚えている。
『カリン?』
カリンは何も言わない。ただ真っ直ぐに西の空を見ている。すぐ横に転がる虫喰いの死体。今殺したばかり。襲われたから殺した。でもカリンはきっとそんな事ない。
『カリン?』
ぼんやりとした山霧の中、カリンが歩き出した。後ろを歩く。
『ねぇ、聞いてる?帰るよ?』
カリンが私の方を振り向く。虚ろな目で、それでも誤魔化すように下手くそに笑った。
『なんでわざわざ、虫喰いに襲われに行くの?』
『でも、あれがお兄ちゃんの生きる意味だから』
耳元で声がした。振り払うように振り向く。虫喰いの死体が変化していく。毛が抜け落ち、肌はぶよぶよとした見た目に膨れ、白くなって硬くなる。切り落とされた首の方と目が合った。まん丸な目に雌黄色の瞳から色が落ちる。
この虫喰いはリズちゃんの方だ。顔がどこか似てるから。
―――
首が痛い。枕代わりの丸めたジャケットが凹まない。天井付近の微かな隙間から光は漏れてない。夜だ。虫の音がしない。
誰も起きてない。立ち上がって静かに寝ている人を跨ぐ。嫌な夢を見た。ただひたすらに虫喰いを殺す夢。記憶には無い。私もカリンも虫喰いを殺すのは別に好きじゃない。
施術を解き、ゆっくりと鉄の扉を開けた。錆びた音が響く。数人起きた。でもそれでいい。
日が昇りそうな空、それがよく見える。微かに見える地面には、大量の体液や虫の死骸や葦が転がっている。
それは体育館の壁も同様だ。肩に雫が落ちた。臭い。変な色をしている。
少し眩しくて目を細める。山の向こうから刺す日を浴びる。
「虫喰いが来る前に、掃除しないと」
いつの間にか後ろに立ってたキョウヤが、欠伸混じりで言った。
―――
横一列になって、川でバケツに水を汲む。みんなで土手を登る。私の横にいるお姉さんが笑う。
「雨降ってくれればいいのにね」
「はい」
空は青く高く、もしも私が逆さまになって、空に向かって落ちたらどこにいくんだろう。そんなことを昔考えていたのを思い出す。今でも昼と夜の空が同じなのが信じられない。大人もよく分かってない。
「……曇って、何なんですか?どこから来るんですか?」
お姉さんにふと気になったことを聞いてみる。
「え?雲は海からだったかな?何なのかは知らない」
ほら。大人は別に詳しくない。旧市街で本を漁った方が、答えには近づける可能性が高いから。
大きな雲が遠くに見える。転がる虫の死骸を集める人、壁に付いた体液を落とす人、窓に張った板を外したり、壊れた建物を確認する人。
「キョウヤ!!生きてる!!」
誰かが叫んだ。つばの広い帽子を被ったキョウヤが、腰にバッテリーをさげて走る。建物の瓦礫から顔を出した虫を、キョウヤが少し大きめの赤いハンマーで潰した。
バケツの水を1箇所に集める。また汲みに行く。「うげっ」という声とともに、水を地面にぶちまける音がする。横を見ると転けた人が1人。ミズキだ。
みんなの足が止まる。ミズキはすぐに顔を上げて、周囲を見てアワアワとしている。
ミズキの横の人が声をかけようとする前に立ち上がり、走って川まで戻っていく。みんなまた歩き出す。
「ミズキちゃん可愛いね」
「……はぁ」
「怪我してないかな?」
別に今のが可愛いとかは無いんじゃないか。私は恥ずかしい。あと効率も落ちてる。バシャバシャと音を鳴らして、ミズキが走って戻ってくる。列に追いついた時、周りの人が笑ってミズキに話しかけている。それを顔で追いかけながら、ミズキが照れていた。
「私って、可愛くないですか?」
ふとそんな事を口走った。お姉さんは笑う。
「そういう所、可愛い」
基準が分からない。
何度目かの水汲みが終わり、虫の死骸を一纏めにした所でお昼になった。給仕の人達が出てきてお昼ご飯になる。
適当に使える机と椅子を並べて、皿を受け取ってそれを持っていく。太陽の下に並んだ机の隅にミズキがちょこんと座っているので、横に座った。
ミズキは片脚のズボンを捲っていて、ガーゼが貼ってある。
「痛い?」
「大丈夫……」
暑い中熱いご飯を食べる。汗が出る。水を飲む。少し離れた所でキョウヤが誰かと会話しながら歩いてきて、1人向かいの席に腰掛けた。キョウヤも汗を拭きながら両手を合わせた後にご飯を食べ始める。
「午後からはカリン達の救助に行こう」
「いいの?」
「ここからは俺たちが居なくても回る。俺たちができることをやろう。駐屯って言うのにも興味がある」
「まぁ」
匙を置いたミズキがキョウヤを見る。
「私も、行きたい、です……」
少しずつ声が小さくなっていく。キョウヤが笑う。
「もちろん」
まぁ、ミズキはここで力仕事やるよりはいいかもしれない。
ご飯をかき込んで車庫に行く。戦車のエンジンをかけて外に出す頃には、ミズキとキョウヤが居た。
「運転、任せていいのかい?ユスケを呼んでもいいけれど」
「大丈夫」
道は覚えてる。後ろにキョウヤ、助手席にミズキが乗った。コミュニティが遠くなっていき、虫の死骸が転がる畦道を走る。
「うひゃあ、今回の嵐は随分と大きい」
「ここは片付けなくていいの?」
「優先順位は低いかな。先にカリン達と、君らが協力したらしいあっちのコミュニティの方だね」
戦車が山道に入る。木々がいくつか倒れていて、それを戦車が踏み越えて進む。木にはこびり付いた虫の甲殻がある。
「……もうすぐです」
ミズキが言う。山道を進んでいると、気持ち悪い物が前にあり止まった。20体程の獣が、アスファルトの上でぐちゃぐちゃの死体になって転がっている。
「なにこれ」
「えっと、虹色の」
ミズキが顔を横に向けてそこまで言う。あいつか。後ろのキョウヤが顔を乗り出す。
「なにかに食われた後のようだ。ほらあそこ」
山の中に虫がいる。翅を広げて飛ぼうとしているのに、体は一向に宙に浮かない。さらに山の奥、木々の影から虫喰いが顔を出した。飛べない虫に真っ直ぐ向かっている。黒いしっぽで虫の頭を串刺しにした虫喰いは、そのまま虫を食べ始める。甲殻を剥がし、中の肉を齧る。その中に小さな虹色が見えた。
それは虫喰いの口の中に消えて、もう見えなくなる。
「へぇ……」
キョウヤが感嘆の声を漏らす。ミズキが戦車から降りる。
「この下です」
そう言ってアスファルトから外れた山の急斜面を指さした。木々に引っかかるように獣が死んでいる。
戦車を降りて3人で山を下る。何度かミズキが転けそうになり、その度にキョウヤがミズキの服を掴む。
「ごめんなさい……」
「大丈夫」
キョウヤは笑う。初めは手こずってたミズキも、数回転けそうになった後は普通に降りれるようになった。少しなだらかな場所に出る。地面に血の痕がある。ポタボタと道を示すように続いていた。
キョウヤが肩を竦めて進む。ミズキが駆け足気味で追いかける。私もそれに続く。
10分も歩かないうちに、遊歩道の途中にある灰色の建物の前に来た。
「展望台かな?」
「そこじゃないでしょ」
建物の一面に、びっしりと虫の死骸が詰められている。全て同じ武器で傷つけられた痕がある。カリンのメイスだ。ずっと見てきたし分かる。
入口らしき扉を開ける。薄暗い。
「もしもーし」
キョウヤが声をかける。返事は無い。そのまま3人で中に入る。
すぐに見つけた。建物の真ん中辺りで、ハチとフェタが居る。ハチは座って塞ぎ込んでいる。フェタは横になっていて、脚に白いあれ。
キョウヤがハチの横に座り、ハチの肩を揺する。
「ハチ」
ゆっくりと顔を上げたハチは、目を真っ赤にして泣いた後らしい。フェタも寝ているみたいで、肩や腹が微かに動いてる。
「良かった、生きてる」
静かで薄暗い建物の中、ボソボソとハチが声を絞る。
「カリンが消えた……」
突然音がなり眩しくなった。虫の死骸の山が崩れて建物に光が入る。虫の液が付いた、薄汚れたジャケットが落ちているのを拾い上げる。
カリンが逃げた。私を置いて逃げるとか有り得ない。
力を使って怖くなったのか知らないけど、絶対に逃がさない。




