海獣
血塗れのハチに案内されて、ミズキの隠れてる部屋のドアをノックして開ける。暗闇の中に縮こまったミズキが居た。
ビルを出る間、会話は無かった。ハチが喋らないからだ。戦車の布を外して乗り込む。朝霧の中西に走らせる。
エンジンの音、戦車の重さ、カリンがベルトを調整する音。
「……ハチ、はい」
タオルを投げる。ひらりと風で飛びそうになるのをカリンが掴み、ハチに渡す。
「あ、あぁ……」
「らしくない。降りる?」
「い、いや……」
タオルを水で塗らし、顔を拭きながら、ハチは上の空な返事をする。
カリンも、もう隠し通せるとは思ってないと思う。
「……あんなのも死ぬんだよな。いや、そりゃそうか。生き物なんだし」
「まさか殺すなと?」
「まさかそんな事じゃねぇよ、東京で聞いたんだ。あっちではケラ喰いって呼んでたな」
「……どこまで聞いたの?」
「全然。そういう脅威が居て、殺したって話だけだよ」
「ふーん」
霧が少し薄くなる。背中から日が昇ってきた。それと同じくらいに、足元に水を捉えて停まる。
「……着いたのか?」
「そう」
前方数メートル先から、緩やかに硬い地面が割れて下に下がっている。一面に水。水の奥は見えない。霧もそうだし、少し濁ってる。
視界に広がる水面は、すぐに別の障害物にぶつかる。大きな建造物がいくつも水から顔を出している。
「水没都市じゃん、ヤバ」
「琵琶湖海峡の南東部」
「海峡を近くで見るのは初めてだ」
「そう。良かったね」
「ここを渡りたいのか?」
「まぁ、渡れるならどこでもいいけど」
ミズキの方を見る。ぼーっと水没都市の方を見ている。
「ミズキはここから渡ってきたの?」
「ううん」
首を横に振る。
「もっと北」
「中央の方かな?」
「なんか違いがあるのか?」
「化け物が居ること以外は別物だよ」
「そうじゃん。化け物。こっから見える?」
「ちょっと進めば見れるかも。行く?」
「行く」
再び戦車を走らせる。北を向いて、渡れそうな道路を探す。少し先に、水面ギリギリで通れる高架跡を見つける。
「なぁ、こういうの渡っていけば最悪行けるんじゃねぇの?」
「少なくとも戦車は無理。生身かつカリン位なら、行ける可能性はあるかも」
カリンがこちらを見て、静かに首を横に振る。
「無理だとよ」
「じゃあ無理」
戦闘明けで索敵もさせて、カリンも疲れてそうだった。早めに切り上げて北上した方がいいかもしれない。
高架に入る。すごく遠くで微かに波の音がする。
「なぁ、なにあれ」
水面に虫が、4本の脚を水面に着けて浮いている。かなり大きいけど細い。多分蹴れば殺せる。
「さぁ」
「さぁって」
「私たちも、ここは始めて来たから」
「化け物見た事ねぇの?」
「それはもっと北。旧市街の奥の水没都市なんて、用がなきゃ来ないよ」
ハチが真顔で固まる。
「……待った。海峡の化け物って一体じゃねぇの?」
「当たり前じゃん。この海峡全部を一体で封鎖してるとでも?」
「何体も居るってこと?一体も殺せてないんだろ?渡るの無理じゃん」
「だから無理だって、最初に言ったじゃん」
出来るなら、何年も縛られてない。水面を動く虫が増えてくる。さっきまでの陸地は霧で見えなくなった。それだけで、足場の不安定さに不安になる。
ハチが水面を覗く。水の中の建物が少しだけ見える。沈んだ廃墟から、小さな魚がチラリと見えた。
前方の道が途切れているので、Uターンだけして戦車を停めた。
「……降りる?」
「当然」
ハチが戦車を降りて水面を覗く。
「ミズキは?」
首を横に振る。無理強いする気は無い。カリンが降りるので私も降りる。
途切れた道はかなり先に続きが見える。ここ一体が思い切り無くなったのだろうか。水底が見えない。
水面から出ているビルは転々とある。そこをぴょんぴょんと飛び跳ねて進む人間を想像してみるが、実現出来ないのは周知の事実だ。
「汚ぇってのは、少し残念だよな」
「何が?」
「ここが綺麗なら、少なくとも俺は毎週来るのに」
「あんたのロマンってやつ?」
「どうだろうな」
カリンが辺りを見回す。まだ虫喰いの警戒をしているのかも。
「何かいる?」
「今のところは」
「そういや、カリンは色々見えてるんだろ?化け物の場所とか見えねぇの?」
「水の中はちょっと」
「流石にか」
水面に浮く虫が、一斉に離れて見えなくなる。カリンが固まる。こういう小さな虫が消える時は、そういう合図だ。
水の下、何かの影が奥から迫ってくる、波は出ない。ハチが頭を引っ込める。どんどんと近づくそれは、ビルが小さく見える位大きく、横からヒレのようなものが伸びている影だ。
呼吸が止まる。水面が薄く、広く揺れる。その影が高架の下に潜った。影が頭から尻まで消えるのに、5秒以上かかった。
ガスマスクの呼吸音だけが聞こえる。地面が小さく揺れた気がしたが、分からない。
「……あれ?」
「……あれ、多分」
尻もちを着いたハチが失笑する。カリンは立ったまま、悩む仕草をしている。
「カリン、倒せそうか?」
「全貌が見えないから確証では無いけど、顔を出すならやり用はあるはずだ」
「だといいけどな。もう帰ろうぜ」
立ち上がろうとするハチをカリンが止める。
「待って」
「何?」
「こんな複雑な水域にわざわざ遊泳しに来た理由が分からない」
「縄張りとかじゃねぇの?」
ハチが自分の言葉で俯く。そうか。戦車が走る揺れで寄ってきた可能性があるのか。
「どうするんだ?」
「待つしかないね」
カリンが辺りを見回すが、後ろで止まった。私もそっちを見る。
水面から、細長い虫の脚が伸びている。人の背丈2つじゃ足りない位長い。さっきは無かった。
水面を、まるで死体の様に浮いている。
「……あれか?」
「分からない」
化け物なのか、それとも化け物に喰われた別の生き物か。とにかく今動くのは危ない。のに、カリンが歩く。
「ちょ……」
カリンが石を拾って沖に投げる。浮いている脚は動かない。カリンが更に砂利を拾って沖に投げる。脚はゆっくりと沈んでいく。
音がしない。カリンが沖を見つめる。水面は見る気にならなかった。
「乗って」
カリンの合図で戦車に走る。全員乗ったのを確認して走らせる。
「ミズキ、さっきの見てた?」
「うん」
「見た事ある?」
「うん」
ハチが前に顔を出す。
「なるほどな。化け物はあの虫の脚で決まりか」
「まぁ、疑ってはないけど」
「やっぱお前たちも見た事無かったんだな」
「あの魚影みたいなのしかね」
「……虫なんだよな?」
「多分ね」
カリンが後ろを見ている。陸地に入ると、地面の走行音が変わった気がして、少しだけ安心した。




