8話 王手
裏路地を抜けると、街の空気が変わった。
さっきまでの薄暗く息苦しい空間から、人の声と生活の匂いが満ちる通常の通りへ。燭台の明かりが石畳を照らし、遠くで馬車の車輪が音を立てている。
私は喉を押さえながら、ゆっくりと息を整えた。まだ痛みが残っている。首筋には男の指の跡が、じんわりと熱を持って疼いていた。
「――お二人とも!」
聞き覚えのある声が、前方から響く。
顔を上げると、そこには丸眼鏡の司書が立っていた。息を切らせ、額には汗が滲んでいる。走ってきたのだろう。
「無事で……よかった」
彼は膝に手を置き、肩で息をしながらこちらを見た。その目には、安堵と心配が混ざっている。
「追いかけてきてくれたのですか」
私が問うと、司書は頷いた。
「お二人が急に飛び出していったので……心配になって」
彼は私の首元を見て、表情を曇らせる。
「その首は……」
「大丈夫です。命に別状はありません」
私は首元を覆うように手を当てた。見せたくない弱さ。だが、隠しきれるものでもない。
司書はしばらく何か言いたげに口を開きかけたが、やがて別の問いを選んだ。
「……目当ての物は、手に入れられましたか」
その言葉に、私とロルフは顔を見合わせる。沈黙が、答えだった。
「……無理でした」
私は悔しさを滲ませながら答えた。ロルフも小さく頷く。
前を向こうと誓ったばかり。それでも、失望は胸の奥で重く沈んでいく。命懸けで追いかけたのに、何も得られなかった。不正の証拠は、また遠ざかった。
司書は二人の表情を見て、何かを察したようだった。彼は少し迷うように視線を落とし、やがて静かに口を開いた。
「あの……もし、よろしければ」
「何でしょう」
私が問うと、彼は丸眼鏡を指で押し上げる。
「僕が覚えている範囲でいいのなら――あの本の内容を、紙に書き起こして差し上げられます」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。書き起こす。本の内容を。記憶だけで。
「……本当ですか」
声が震えた。胸の奥に、何かが灯る。暗闇の中に、一筋の光が差し込んだような感覚。
「ええ。完璧とは言えませんが、数値や取引先、日付などは正確に覚えていますから」
司書は真剣な目でこちらを見た。
「僕にできることは、それくらいしかないので」
私は前のめりになった。喉の痛みも忘れ、彼の言葉にすがりつくように。
「是非、お願いします!」
声が大きくなる。通りを歩く人が、こちらを振り返った。だが構わない。今は、これしかない。
司書は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「分かりました。少し時間をいただければ――」
「いくらでも待ちます」
私は深く頭を下げた。ロルフも隣で同じように礼をする。
「助かります」
「助かる」
彼の声にも、安堵が滲んでいた。
司書は照れくさそうに頭を掻き、「では、できるだけ早く」と告げて去っていった。その背中が夜の闇に溶けていくまで、私たちは見送った。
城への帰路、二人とも無言だった。
足音だけが石畳に響く。冷たい夜風が頬を撫で、首の痛みを思い出させる。だが、胸の奥には微かな温もりがあった。
希望――そう呼んでいいのかは分からない。だが、まだ終わっていない。そう思えることが、今は何より大切に思えた。
それから数時間も経たないうちに、城の戸が叩かれる。
「どうぞ」
ロルフが答えると、扉が開く。そこに立っていたのは、司書だった。手には数え切れないほどの紙の束を抱えている。
「お待たせいたしました」
彼は部屋に入り、机の上に紙束を置いた。インクで細かく書き込まれた文字。数字。日付。取引先の名前。
私は息を呑む。
「これが……」
「はい。僕が覚えている限りの内容です」
司書は少し疲れた顔をしていた。きっと、あれから一心不乱に書き起こしてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げる。ロルフも同じように礼をした。
「本当に、助かった」
司書は穏やかに微笑み、「お役に立てて何よりです」と答える。
彼が部屋を出た後、ロルフは紙束を手に取った。目を輝かせ、ページをめくる。
「これで、奴の不正を暴ける」
声が弾んでいる。上機嫌そうな表情。久しぶりに見る、希望に満ちた顔だった。
だが――
「これだけでは、不足です」
私の言葉に、ロルフの手が止まった。
「……何?」
彼は振り返る。眉が寄せられ、困惑の色が浮かんでいた。
私は紙束を受け取り、最初のページを開く。
「この紙の束を裏帳簿と証明するために、倉庫番のハインリヒがくれた帳面や実際の補助金の額と比較調査をしないといけません」
指で数字をなぞりながら、静かに続ける。
「司書さんの記憶が正確であることは信じています。ですが、法的な証拠としては弱い。これは『司書が書いた紙』でしかありません」
ロルフは黙って聞いていた。
「本物の裏帳簿があれば、徴税官の筆跡で証明できます。ですが今はそれがない。だから――」
私は顔を上げる。
「この数字が、ハインリヒさんの記録や王都からの補助金額と一致することを証明する必要があります。矛盾がないこと、辻褄が合うこと、それを積み重ねて信憑性を高める」
沈黙が落ちる。ロルフはしばらく私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……確かにな」
彼は椅子に座り、頭を掻く。
「地道だな」
「革命は地味です」
私は以前も言った言葉を繰り返した。ロルフが苦笑する。
「口癖だな、それ」
私は答えず、紙束を机に広げ始めた。ハインリヒの帳面も並べ、王都からの補助金記録も取り出す。数字、日付、取引先。一つずつ、丁寧に照合していく。
時間はかかる。だが、確実に真実へ近づいている。
ロルフは私の様子をしばらく見ていた。集中して紙に向かう横顔。ペンを走らせる手元。時折、小さく呟く声。
やがて彼は静かに立ち上がる。
「……あまり、無茶はするなよ」
「え?」
私が顔を上げると、彼はもう扉に向かっていた。
「例え奴の不正を暴けたとしても、あんたが倒れたら元も子もないからな」
振り返らずにそう言う。その声は、いつもより少し優しかった。
「あ、ありがとうございます」
彼は手を軽く上げ、部屋を出た。扉が閉まる音。静寂が戻る。
私は再び紙に向き合った。インクの匂い、羽ペンのかすれる音、窓から差し込む光。
今度こそ、絶対に掴む。そう心に誓って。
ロルフは廊下をゆっくりと歩く。石壁を撫でる冷たい感触。足音が静かに響いていた。執務室の扉が遠ざかっていく。
彼の目指す先は、父の部屋。コンコンと叩くと、「どうぞ」という父の声。
「父上。頼みたい事が……」
♢
その後ロルフは庭先へ足を延ばす。景観は質素だが、手入れはされている。低い生垣、石畳の小道、中央には古い噴水。水は出ていないが、苔むした石が静かに佇んでいた。
空は高く、雲が流れている。風が髪を揺らし、服の裾を撫でた。
ロルフは噴水の縁に腰を下ろした。石の冷たさが、腰を通して伝わってくる。彼は空を見上げた。
――あいつは、本当に強いな。
心の中で呟く。
首を絞められ、剣を振りかざされ、死の淵に立たされた。それでもまだ、前を向いている。諦めない。折れない。ただひたすらに、領地を救おうとしている。
最初に彼女に感じた印象は、箱入り娘だった。剣も鍬も持ったことのなさそうな細い腕、陽の光を知らないであろう白い肌。苦労知らず。そんな感想を抱いた。
しかし、彼女はすぐにそんな印象を跳ね除けた。見ず知らずの軍人2人に対し、臆面もなく帳簿を要求。その後寝る間も惜しんで、読み漁っていた。
当初も今も、彼女はこの領の為身を削って尽くしてくれている。
――なら。
「俺も俺の役割を果たす」
ロルフは目先の蠢く影に向かって、そう呟いた。
徴税官ノイワール・リカードは狡猾な男だ。
リュシアが裏路地に入った瞬間、野盗に囲まれた。いくらスラム街とはいえ、タイミングが良すぎる。待ち伏せされたと考えるのか自然だろう。
その待ち伏せが失敗した今、直接害しに来るかもしれない。ロルフが庭先に訪れたのは、そうした意図が隠されていたからだった。
そして、彼の予感は的中することになる。
月明かりが照らすのは1人の騎士と、襲撃者。長い長い夜が始まろうとしていた。
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