7話 裏帳簿の在処は
「あの……実は、お二人に言い忘れていたことがありまして」
司書は少し躊躇いがちに、しかし確かな意志を秘めた目でこちらを見つめていた。丸い眼鏡の奥で瞳が揺れる。
私とロルフは顔を見合わせる。そして、促すように視線を彼に向ける。
彼は周囲を警戒するように視線を巡らせてから、声のトーンを落とした。
「徴税官殿がよく借りていく本があります。『各領財務諸表集』という――」
「ああ、以前聞いた」
ロルフが頷く。
「それが……違和感があるんです」
司書の眉が僅かに寄せられる。
「違和感ですか?」
私が問い返すと、彼は頷いた。
「僕、一度読んだ本の内容は完璧に把握できるんです。子どもの頃からそうでして――それで司書という職に就いたんですが」
彼は言葉を区切り、慎重に続ける。
「その本の数値と筆跡が、変わっているんです」
空気が静止した。心臓が一拍、強く跳ねる。
「……数値が、ですか」
「ええ。元々記載されていた数字と、今の数字が違う。それに、筆跡も明らかに別人のものです」
私の脳裏で、断片が一本の線に繋がっていく。
裏帳簿が本の中に隠されているのではない――本そのものが裏帳簿なのだ。
既存の財務諸表に、自分たちの取引記録を上書きしていた。誰も気に留めない、図書館の蔵書として。
「ロルフ」
「ああ」
彼も既に同じ結論に至っていた。鋭い眼差しが、一点を見据えている。
「「図書館へ」」
私たちは駆け出した。
石畳を蹴る足音が、焦りを表すように不揃いに響く。司書も後ろから付いてくる気配があった。
息が上がり、胸が苦しくなる。それでも足を止めるわけにはいかない。
図書館の重い木扉を開けた瞬間、紙と革の匂いが一気に押し寄せた。
「『各領財務諸表集』は――」
息を整えながら問う。司書が書棚の奥を指差した。
「はぁはぁ、あちら、です」
私たちは書棚へ向かう。背表紙が整然と並ぶ中、目当ての本を探す。指先で一冊ずつなぞり、タイトルを確認していく。
『税制概論』『辺境統治の歴史』『王国財政の変遷』――
「……ない」
ロルフが低く呟く。私も同じ棚を2度、3度と確認する。だが、やはりそこに『各領財務諸表集』はなかった。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。冷たい水が内側から染み出すような感覚。
「他の場所は」
ロルフの問いを受け、司書が館内を見渡す。私たちも散開し、机の上、返却棚、閲覧席の隅々まで時間の暇もかけずに探した。埃が舞い、古い紙の匂いが濃くなる。だが、本は見つからない。
窓の外を見ると、陽はすでに傾き始めていた。オレンジ色の光が、書棚を長く照らしている。
「……ない」
ロルフが額を押さえる。疲労と焦燥が、その声に滲んでいた。
私も、もう一度だけ館内を見渡す。閲覧席には数人の利用者。静かに本を読む老人、何かを書き写す若者。
――その時、出口へ向かう男性の姿が目に入った。
黒い外套。手には一冊の本。背表紙が一瞬だけ光を反射し、金文字が浮かび上がる。
『各領財務諸表集』
心臓が跳ねた。
「あの人――!」
声を上げるより先に、体が動いていた。
書棚の間を抜け、閲覧席の脇を駆け抜ける。足音が木の床に反響し、数人の利用者が驚いて顔を上げる。だが構っていられない。
男は既に扉を開け、外へ出ようとしていた。
「待って――!」
叫びながら扉へ飛び込む。重い木扉が肩に当たり、鈍い痛みが走る。それでも足を止めず、外へ出た。
夕暮れの街路が視界に広がる。男の黒い外套が、人混みの中を遠ざかっていく。
私は息を切らせながら追いかけた。
石畳が足裏を叩き、肺が悲鳴を上げる。喉が焼けるように熱い。それでも、男の姿を見失うわけにはいかない。
――ロルフに声をかけるのを忘れた。
そう気づいたのは、すでに図書館から随分離れてからだった。だが今更引き返すわけにもいかない。男はどんどん先へ進んでいる。
角を曲がる。また曲がる。見慣れない路地、狭い石畳、薄暗い軒先。街の景色が少しずつ変わっていく。
それでも追い続けた。
五分、十分――時間の感覚が曖昧になる。息は荒く、視界の端が揺れている。足が重い。それでも、止まれない。
そして二十分ほど経った頃、ふと気づいた。周囲の空気が、変わっている。
建物は古びて傾き、壁には落書きが走っている。道端には酒瓶が転がり、暗がりから視線を感じる。スラム街――そう理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。男の姿は、もう見えない。
私は立ち止まり、周囲を見渡す。息を整えようとするが、心臓の音が耳の奥で激しく響いている。
引き返そう――そう考えた時だった。
足に何かを引っかけられる感覚に襲われた。
次の瞬間、体が前のめりに倒れる。石畳に手のひらが叩きつけられ、鋭い痛みが走った。膝も強く打ち、息が詰まる。
「――っ」
顔を上げると、前方に人影があった。
柄の悪そうな男たちが、路地の奥を塞いでいる。三人、いや四人。薄汚れた服、傷だらけの顔、腰に下げた刃物。
野盗、そう理解するのに時間はかからなかった。
後方へ逃げようと振り返る。だが、そちらにも同じような男たちが立ち塞がっていた。――囲まれている。
恐怖が、氷のように全身を這い上がってくる。指先が震え、呼吸が浅くなる。だが、震えてはいけない。弱みを見せてはいけない。
私は必死に腕を抱き、体を震わせないよう力を込めた。唇を噛み、視線だけは逸らさない。
男たちがゆっくりと近づいてくる。その目は、獲物を見るような色をしていた。舐めるように私を見る。口元には下品な笑みが浮かんでいた。
「よォ、嬢ちゃん」
正面にいた男が一歩前に出た。背が高く、顔には古い傷跡が走っている。その手には、刃こぼれした剣が握られていた。
「あんた――踏み入れちゃいけねえとこに首を突っ込んだな」
醜悪な笑みが広がる。踏み入れてはいけない場所。それはきっと、スラム街だけを指すわけではない。
男の手が伸び、私の首を掴んだ。
「――ぐ、っ」
首が締め上げられ、呼吸が止まる。指が喉に食い込み、視界が歪む。足が地面から浮き、爪先だけが石畳を擦った。
苦しい。息ができない。肺が悲鳴を上げ、意識が遠のきかける。
男は剣を振り上げた。刃が夕陽を反射し、鈍く光る。
――ああ、ここで終わってしまう。
そう理解した瞬間、不思議と恐怖よりも別の感情が湧いてきた。
後悔はない。やれることはやった。だが、まだ領を救えていない。それだけが――悔しい。
剣が振り下ろされ、私は目を閉じる。
次の瞬間――鈍い音が響いた。
何かが地面に落ちる音。そして、男の絶叫。
「ぎゃああああああああっ!」
首を掴んでいた力が消える。私は地面に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。喉が焼けるように痛い。それでも肺が酸素を求め、何度も何度も息を吸い込む。視界が霞む中、地面が見える。
そこには、切り落とされた腕が転がっていた。
血が石畳に広がり、男はその場でのたうち回っている。悲鳴が路地に響き渡る。
「――ぁ......」
震える手で、顔を上げる。
そこに立っていたのは、ロルフだった。
しかし表情は凍りついたように冷たく、目には一切の感情が見えない。氷よりも冷たい、刃のような眼差し。手にした剣からは血が滴り、刀身が夕陽を反射して赤く染まっている。
彼は一歩、前に出た。その一歩だけで、周囲の空気が変わる。
野盗たちが思わず後ずさる。さっきまでの余裕は消え、顔には恐怖が浮かんでいた。
「て、てめえ――」
誰かが震えた声で言う。だがロルフは答えない。ただ静かに、剣を構えた。
その動きには一切の無駄がない。訓練された、敵を殺すための軍人の動き。
「逃げろっ!」
誰かが叫び、野盗たちが散り散りに逃げ出す。だがロルフは追わなかった。ただ彼らが完全に姿を消すまで、剣を構えたまま動かない。
やがて、路地には私とロルフだけが残った。彼はゆっくりと剣を下ろし、振り返る。
その瞬間、冷たかった表情が一変した。氷が溶けるように、感情が戻ってくる。
「――リュシア!」
彼は駆け寄り、私の肩を掴んだ。その手は震えている。
「大丈夫か、怪我は――首、見せろ」
荒い息で問いかけてくる。私は咳き込みながら、小さく頷いた。
「......だい、じょうぶ、です」
声がかすれている。喉が痛い。だが、命に別状はないだろう。
ロルフの目に、安堵と怒りが入り混じった色が浮かぶ。
「何やってんだ、一人で――!」
「……すみません」
私は俯いた。確かに、無謀だった。だけど
「本を、持っていた男が――」
「本なんかより、命の方が大事だろ!」
彼の声が荒くなる。だがすぐに、はっとしたように口を閉じた。沈黙が落ちる。
「……頼むから、こんな無茶は二度としないでくれ」
彼の縋るような目には、心配と若干の怒りが込められていた。
「......ごめんなさい」
もう一度謝ると、ロルフは長く息を吐いた。
「もういい。とにかく、城に戻ろう」
彼は私の腕を取り、立ち上がらせる。足が震えていたが、なんとか立つことができた。
「歩けるか」
「……ええ」
二人で路地を抜ける。街の喧騒が遠くから聞こえてくる。だが、その音すらどこか遠い。
――本は、結局手に入らなかった。だが、一つだけ分かったことがある。ロルフは、私を守るために動いてくれた。あの冷たい表情の裏には、確かな感情があった。
そして私も彼に守られたことが、不思議と嫌ではなかった。いつもなら、自分で何とかしなければと思うだろう。だが今は、ただ彼の背中が頼もしく見えた。
城へ続く道を、2人で並んで歩く。夕陽が沈み、空が藍色に染まり始めている。1日が終わろうとしていた。
だが、まだ終わっていない。裏帳簿は、まだ手の中にない。私は喉の痛みを堪えながら、小さく呟いた。
「……まだ、諦めません」
ロルフが横目でこちらを見る。
「あんた、本当に――」
言葉を探すように間を置き、やがて苦笑した。
「強情だな」
「領地を救うまで、諦めません」
私は真っ直ぐ前を見た。喉は痛い。体は疲れている。だが、心は折れていない。
裏帳簿は、必ず見つける。そのためなら、何度でも立ち上がる。
ロルフが小さく笑う。その笑いは、呆れと何か別の感情が混ざっているようだった。
「……分かったよ。最後まで、俺も付き合おう」
「ありがとうございます」
2人の影が、石畳に長く伸びている。明日、また動き出そう。
今度は2人で――必ず、答えを掴むために。
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