6話 休日
裏帳簿を探し始め、一ヶ月が過ぎていた。
城の石壁に差し込む朝の光が、やけに白く見える。机に広げた紙束は増えるばかりで、裏帳簿は影も形もない。
城内、役所、倉庫、領内の商会、図書館。思い当たる場所はほとんど洗い直した。それでも、何も出ない。
「……ないな」
ロルフが額を押さえる。目の下には濃い影が落ち、無精髭まで生えていた。鏡があれば、私も似たような顔をしているだろう。視界の端が常に霞み、文字が二重に見えることすらあった。
彼も私も通常業務の合間を縫って裏帳簿の捜索をしており、ここしばらくまともに休めていない。なので、疲労が貯まるのも仕方のないことではある。
「焦っても、出てくるものではありません」
そう答えたものの、自分の声にも疲労が滲んでいるのが分かる。その様子を見かねたのだろう。ユリウス伯が静かに言った。
「ロルフ。今日は仕事を切り上げろ」
「ですが父上――」
「命令だ。リュシア殿を連れて、街を案内してやれ」
伯の視線が私に向く。責める色はなく、ただ穏やかな心配があった。
「息抜きも、仕事のうちです」
私は一瞬迷い、やがて頷いた。――息抜き。その言葉が、どこか遠いもののように感じられる。
♢
城門を出ると、空気が変わった。
城壁の内側とは違い、街には匂いがある。焼けた肉、干し草、革、果実。人の声が幾重にも重なり、馬車の車輪が石を鳴らす。笑い声、値切る声、子どものはしゃぎ声。
――胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
「珍しいか?」
横を歩くロルフが問う。
「……ええ」
私は素直に答える。
「こういう場所に来ることは、ほとんどありませんでしたから」
幼い頃から、王妃教育として学問、歴史、財政、外交、舞踏、礼法。あらゆる教科を学んできた。1日の予定は常に埋められていて、空白は許されない。それ故、街に出て遊ぶ機会などなかった。
自分の中に知識が蓄積されていくようで、嫌な思い出というわけでもなかったが。
街の喧騒は、私にとって異国の風景に近い。
露店の前で子どもが転び、母親が笑いながら抱き起こす。その様子を見て、胸の奥に不思議な感覚が広がった。温かくて、少しだけ眩しい。
「まずは腹ごしらえだな」
ロルフが指差した先に、小さな定食屋があった。木の看板には手書きの文字が並び、扉を開けると焼けた肉と香草の匂いが一気に押し寄せる。
店内は質素だが活気があった。厚い木の机、磨ききれていない銀器。湯気は立ちのぼり、料理人の手際は鮮やかだ。
ロルフがさっと注文を済まし、ほどなくして皿が運ばれる。
肉と野菜をとろけたチーズに絡め、薄いパン生地で包んで焼き上げた一品。香ばしい焦げ目から、湯気と共にほうれん草の青い香りが立ちのぼる。
「……これは?」
「鶏肉とほうれん草のパイ焼き。この店の名物だ」
私は恐る恐るフォークを入れた。生地がさくりと割れ、内側から溶けたチーズが糸を引く。
期待に胸を膨らませながら、口に運ぶ。瞬間、目を見開いた。
外側は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。鶏肉の旨味とほうれん草のほろ苦さ、それを包む濃厚なチーズが舌の上で溶け合う。
思わず、頬が緩んだ。自覚するより早く、口元がほどけている。
「……美味しい」
声が漏れた。向かいでロルフがにやける。
「そんな顔、初めて見た」
「どんな顔ですか」
「人間らしい顔」
「私を何だと思ってるのですか」
指摘されて気付く。侍女以外に緩んだ顔を見せたのは、一体いつ以来だっただろう。
店を出ると、外はさらに賑わっていた。布地を売る屋台、香草の束、焼き菓子。風に乗って甘い匂いが漂う。
「甘い物は食べるか?」
「……あまり」
王城では菓子は飾りのような存在であり、食することはなかった。銀皿に整然と並ぶ砂糖菓子。それに手を伸ばすよりも、私には机でペンを走らせる方が楽しく感じられたから。
露店で焼かれていたのは、串に刺した果実だった。表面が飴色に輝き、砂糖が薄く溶けている。
「焼き林檎だ。うまいぞ」
彼は店主に銀貨を渡し、もう一本を私に差し出す。
「受け取れ」
「代金は――」
財布に手を伸ばすと、彼は首を振る。
「これは礼だ」
「礼?」
「ここまで、領のために動いてくれている。甘いものくらい奢らせろ」
彼の意志の固さが、その頑なな目から伝わってきた。
どこか納得がいかない。しかしいくら断っても、彼は引かない気がする。
「……では、お言葉に甘えます」
渋々受け取り、口にする。
ぱりっとした感触の後に、さくさくとした食感。噛み締める度に果汁が舌に広がり、熱と甘さが同時に弾けた。思わず目を細める。
「美味しい」
言葉を選ぶより早く、感嘆が漏れた。
「そうだろ」
ロルフがまた笑う。その笑いは、からかうというより、どこか嬉しそうな感情を滲ませているように見えた。
二人で並んで果実を食べる時間は、普段の激務からは想像できないほど穏やかだった。甘い汁が指に垂れ、慌てて拭う。そんな些細なことすら新鮮に感じられる。
城へ戻ろうと踵を返した、その時だった。
「――すみません」
どこかで聞き覚えのある声が、背後から滑り込んだ。ゆっくりと振り向く。
そこに立っていたのは、丸メガネを掛けた童顔の若者。図書館の司書だ。
彼は訴えかけるような目線で、こちらを見つめている。
甘い香りが遠ざかり、現実に引き戻された気がした。
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