5話 湯上りの熱
とある夜。2人は応接間のソファに向かい合って座っていた。
外は人の気配が途絶え、城壁の隙間を抜ける風が細い笛のような音を立てていた。対照的に室内には、淹れたての紅茶の香りと焼き菓子の甘い匂いがゆっくりと広がり、穏やかな空気に満ちている。
「……常に持ち歩く、か」
ロルフの低い声が、石壁に吸い込まれるように広がった。
「だとしたら、どうやって確かめる」
私は指先で髪を梳くように整えた。だが途中で、繊維が爪にわずかに引っかかる。焦燥というより、思考の熱が胸の奥で燻っている感覚があった。
「直接奪うのは不可能です。裏帳簿を探していると知られれば、その場で口封じされるでしょう」
「なら、隙を突くしかないな」
言葉が途切れ、重たい沈黙が部屋を満たした。
蝋燭の炎がふっと揺れ、壁に映る影が一瞬大きく伸びる。その光の揺らぎの中で、ロルフがふと顔を上げた。
「……そういえば」
「何か?」
「あいつ、たまに温泉に行くらしい」
私は瞬きをひとつ返す。
「温泉、ですか」
「街外れの共同浴場だ。部下を連れているところを、何度か見たことがある」
湯気。衣服。更衣室。
断片的な要素が、頭の中で一本の線として結びついていく。
「衣服を脱ぐ……ということですね」
「……ああ」
ロルフは頷く。
「更衣室に置く服。そこに裏帳簿があるはずだ」
私は小さく息を吐き、彼に依頼する。
「良い着眼点です。では、よろしくお願い致します」
彼はわずかに胸を張る。しかし次の瞬間には、顔をしかめた。
「待て、俺がやるのか?」
「当然です」
迷いのない口調で告げる。
「私は女湯ですから」
ロルフの表情が露骨に曇る。
「男の服をまさぐるのか……」
「領地の未来のためです」
淡々と続けると、彼は深く息を吐いた。
「……くそ。分かったよ」
♢
それから一週間。私たちは徴税官の動きを執拗に追い続けた。
城の廊下に響く靴音、外套の色、革鞄の膨らみ具合。夕刻に外出する時刻、同行する部下の人数、歩幅の癖。細かな情報を一つずつ積み重ねていく。
そして、金曜日に徴税官は必ず街外れへ向かうことが分かった。
「今日だ」
翌週。短い合図を交わし、私たちは温泉施設へ向かった。
木造の建物の屋根から、白い湯気が夜空へゆっくりと立ち昇っている。軒先の看板が風に揺れ、木の軋む音がかすかに聞こえた。
戸口を開けた瞬間、湿った熱気が頬にまとわりつく。硫黄の匂い。石鹸の泡の香り。人の声。様々な気配が混ざり合い、独特の温度を生み出していた。
私たちは目を合わせ、小さく頷く。そしてそのまま、それぞれの暖簾の奥へ足を踏み入れた。
更衣室には木の棚が整然と並び、籠がいくつも積まれている。床は少し湿っており、裸足の足裏にひやりとした感触が伝わってきた。
柔らかな灯りの下、薄く漂う湯気が視界をかすませる。
ロルフは自然な動作で外套を脱ぐ。すると、徴税官が入ってきた。心拍が、わずかに早まる。
徴税官は周囲を軽く見渡し、棚の上段へ丁寧に衣服を置く。無駄のない所作でありながら、目線を四方に向け警戒する様からは用心深さが滲んでいる。そしてそのまま足音が遠ざかり、湯の音だけが残った。
ロルフはゆっくり立ち上がり、徴税官の籠へ向かう。
他の客の視線もある。――あくまで、自然に。
外套を持ち上げる。布の重み。内ポケット。外ポケット。……空。
縫い目を指でなぞる。ざらりとした感触だけが残る。……不自然な加工後はない。
靴。帯。裏地。……ない。
どこにも、それらしい物は見当たらなかった。
すると、背後で足音が止まった。
「……何かお探しですか?」
男性客の声がかかる。ロルフは振り向き、穏やかな笑みを浮かべた。
「すみません、場所を間違えたようで」
衣服を元の位置に戻す。鼓動が耳の奥で響いていた。
外へ出ると、夜風が火照った肌を冷ましていくのを感じる。
私はすでに外に立っていた。濡れた髪から滴が落ち、石畳に小さな円を作っている。頬にはまだ湯の熱が残っていた。
ロルフが現れ、足を止める。その視線が一瞬だけ揺れた。私は首を傾げる。
「結果は?」
彼は何かを誤魔化すように咳払いすると、小さく首を横に振る。
「空振りだ」
「……そうですか」
「振り出しだな」
ロルフが壁にもたれた。
私は空を見上げ、ゆっくりと息を吸う。
「いえ。懐にないと分かっただけでも、収穫です」
彼は苦笑した。
「前向きだな」
「事実を述べただけです」
しばし沈黙。
夜風が髪を揺らし、濡れた毛先が肩に触れる。
「……本当に、怖くないのか」
ロルフがぽつりと問いかける。
「どういう意味です?」
「裏帳簿なんて存在しないかもしれない。三ヶ月で成果が出ない可能性もある。あいつの背後に、もっと大きな闇が潜んでいるかもしれない……そういうことがだ」
「怖いですよ」
私は素直に答えた。
「ですが、恐れたまま立ち止まれば、何も変わりません」
ロルフは小さく笑う。
「あんたのそういうところ、嫌いじゃない」
私は一瞬、言葉を失った。
湯上がりの熱とは別の温度が、胸の奥に静かに広がる。
「……何の話ですか」
「さあな」
彼は肩をすくめる。
振り出し。だが2人で立っている石畳の冷たさが、なぜだか心地よく感じられた。
私は思考を巡らせる。――隠すのではなく、紛れ込ませる。
徴税官は用心深い。ならば裏帳簿は、“帳簿の形をしていない”のかもしれない。
夜空に浮かぶ湯気は、すでに薄れていた。だが霧はまだ晴れない。
それでも、私たちは前を見据えて歩き出す。
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