39話 決着
裁判当日の朝は、驚くほど静かだった。
目が覚めた瞬間から、体の芯がひどく凪いでいる。震えも、じわじわと這い上がる恐怖もない。
ただ今日という日に向けて積み重ねてきた全てが、今この胸の中に静かに在る。その重さが、不思議なほど頼もしく感じられた。
慣れた手つきで身支度を整え、朝食を済ませる。パンを噛む感触、スープの温かさ、窓から差し込む早朝の光。そういったものを、いつもより丁寧に感じ取るように心がけながら。準備万端というのはきっとこういうことを言うのだと、そう思った。
きっと、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、私は裁判所に向かう。
♢
裁判所の建物が視界に入った瞬間、ひりついた空気が肌に張りついてくる。石造りの重厚な外壁、重い鉄の扉。かつてあの場所で判決を言い渡されそうになった記憶が、一瞬だけ足元に影を落とした。
しかし、立ち止まりはしない。胸の中で何かが軋む気配がしても、私は歩みを緩めず歩き続けた。前回とは違う。あの時とは全てが違う。その確信を足の裏に踏みしめながら、私は堂々と扉をくぐる。
法廷に入ると、裁判官席に見知らぬ人物が座っているのが目に入った。白髪交じりの茶色の髪を片手でかき上げる、初老の男性。前回の、あの三十代ほどの若い裁判官とは明らかに別人だ。
殿下が変えたのだろう。殿下の采配ならば、きっと公正に審理してもらえるはず。
ちなみに前回と同様に弁護士はいない。それは、殿下と事前に話し合って決めたことだった。
今から話を合わせようとしたところでうまくいくとは限らないし、そもそも一介の弁護士に財務長官の不正という重荷を負わせるわけにはいかない。
それに弁護士がいなかったとしても、帳簿の数字に関することならば私は誰にも負けない。積み重ねてきた日々が、これまで歩いてきた道のりが、そう証明してくれる。
ふと視線を横に流すと、検察官がこちらを見ていた。目を細め、険しく引き絞った表情で。その眼差しには、全身全霊でこちらを潰すという意志が滲んでいるように見える。
私はその目を、真正面から見つめ返す。今度こそ、負けない。
かんかん、という乾いた音が法廷に響き渡り、開廷が告げられる。すると開口一番、検察官が資料を提出した。
「こちらの資料はリュシア・エーベルハルトの口座残高の推移と、彼女が赴任していたグラナート領および王都での帳簿の差分です。資料をご覧頂ければ一目瞭然、彼女の粉飾は明らかであります」
続いて私が証拠を提出する。裁判官はそれを受け取り、しっかりと目を通し始めた。
その所作を目の当たりにした瞬間、胸の内側がすうっと静まっていくのを感じた。前回の裁判では、提出した資料を見てすらもらえなかった。だからこそ、今日は違うのだと、公正に戦えるのだと思える。
「私が提出したのは、今回の粉飾の真犯人である徴税官の裏帳簿と、王都に提出された帳簿との本当の差分結果です。そちらをご覧頂ければ分かる通り、支出の増加および税収の一定化が顕著になり始めたのは十年も前のことです。つまり粉飾は十年前には既に行われていた。よって私に犯行は不可能です」
裁判官は目を細めながら、提出した資料の上で視線を滑らせていく。
「差分結果はともかく、王都に存在する帳簿上でもグラナート領の支出の増加および税収の一定化は僅かに確認できる。その点、検察官はどう考える」
鋭い目線が検察官へ向かう。しかし検察官は表情をまんじりともさせず答えた。
「確かに、そのようですね。もしかするとリュシア嬢の言う通り徴税官とやらが実際に不正をしていたのかもしれません。しかしながら、それはリュシア嬢の犯行を否定することにはなりえません」
泰然自若に答える検察官を見て、私はやられたと感じた。確かに、一つの事件に犯人が必ず一人とは限らない。
徴税官の犯行を認めた上で私の犯行を問い詰める。これで裁判の構図が変わった。誰が犯人かを争う場ではなく、私の犯行を証明するか否かが焦点になってしまったのだ。
私は焦りを表に出さないよう大きく息を吐き、冷静さを意識しながら言葉を発した。
「検察官の資料を拝見してもよろしいでしょうか」
裁判官が頷き、資料を差し出してくれる。
私はそれを受け取ると、静かにページを繰る。数字を見つけ、数字を追い、引っかかりを探す。
すると少しの時間が経ったところで、一つの違和感が引っかかった。
「このグラナート領の帳簿は今年のもの、王都へ提出された帳簿は去年のものですね?」
「そうだが」
検察官が不機嫌そうに答える。
グラナート領の帳簿の税収が、王都へ提出された帳簿の数値を明らかに上回っていた。しかしそんなことはあり得ない。なぜなら——
「今年の春前には、グラナート領で大規模な飢饉が起きました。ならばこのグラナート領の帳簿はあり得ません。飢饉の有無は、グラナート周辺の領へ聞き込みをすればすぐに確認できるはずです」
きっと、この細工された帳簿は王都で何の危機もなく過ごしてきた人間が書いたのだろう。だからこそ、実際に領で働いてきた私だけが気づけた。
その指摘が落ちた瞬間、検察官の顔がみるみるうちに歪んでいく。冷や汗が額に滲み出し、唇ががたがたと震え始めた。しかしそれでも、彼は食い下がる。
「だ、だとしても、この口座の推移はどう説明する! 粉飾、あるいはそれに類する行為をしていたことは明らかだ!」
「その口座にあるお金は、どこから仕入れたとお考えですか」
「ふん。そんなこと、お前がよく知っているだろう。だが、まあいい。ここは法廷だ。証拠で示すとしよう」
そう言い、裁判官と私の両方へ、ある名簿が配られた。ソリューシ商会の取引名簿と、顧客ごとの取引金額が記された一覧だという。
個人の顧客名簿を簡単に手に入れられるものではない。しかし検察官の背後にいるのは、ソリューシ商会の元頭取でもある財務長官だ。顧客名簿を入手することも、改竄することも、彼には容易だったのだろう。
「ソリューシ商会の名簿には確かにリュシア・エーベルハルトの名前と莫大な資金の流れが記されています。これが何よりの証拠ではないでしょうか」
受け取った資料を読み込んでいく。一見すると整合性の取れた資料に見える。しかし、どこかがおかしい。その感覚を手がかりに、さらに丁寧に目を走らせる。
そして、見つけた。
「こちらの資料には取引相手として顧客部門と商会部門があり、それぞれの名前と取引金額が記されているようです。顧客部門と商会部門を合算した全体の額には問題ないものの、顧客の数値を弄ったために、商会部門の方に歪みが生じています」
傍ら資料の束を、裁判官へ提出する。
「これはソリューシ商会と取引のある各商会の帳簿です。これらの帳簿のうちソリューシ商会に関する記述の総額と、ソリューシ商会側の帳簿の金額を照合すれば、明らかな差分が出るはずです」
裁判官が言われた通りに資料の比較を始める。それと同時に検察官の顔が、みるみるうちに青ざめていった。唇が、かすかに震えている。
商会の帳簿なら、王城にいた頃に嫌というほど見てきた。今ならば帳簿に関することならば商人にも引けを取らない。
暴力では負ける。気品でも負ける。それでも帳簿ならば、数字に関することならば、誰にも負けない。それが、私の積み重ねてきたものであり、誇りなのだから。
しばらくの沈黙の後、読み終えた裁判官がこほんと咳払いをした。そして迷いのない表情で、言い渡す。
「精査の結果、リュシア・エーベルハルトの主張する通り、検察官の提出した資料にはいくつかの疑問が残る」
こほんと咳払いし、裁判官は続きを、判決を言い渡す。
「よって、リュシア・エーベルハルトを無罪とする」
その言葉が自分のものとして理解されるまでに、数秒かかった。視覚も聴覚も、やけに遅く感じる。事実が事実として体に馴染んでいくのに合わせて、じわじわと感覚が戻ってきた。
やった。やった!
裁判に勝った。無実を証明できた。喜びが体中に溢れ、飛び上がりそうになるのを何とか堪える。
でも、まだだ。財務長官を断罪できなければ、まだ勝利じゃない。ここからが本番なのだ。
水気が全てなくなり、絶望に飲まれもはや息すらままならない検察官を横目に、私はまた資料を裁判官の元へ提出した。そして、説明を始める。
グラナート領ほか近隣の複数の領の帳簿と王都に提出された帳簿との備蓄量の乖離。補助金の不自然な流出の痕跡。そして補助金の流出先であるソリューシ商会からの資金の流れ。これまでの調査で積み上げてきた事実を、一つずつ言葉に乗せていった。
「以上のことから、財務長官リチャード・アルタープが補助金を不正に受け取っていた事実は明らかだと考えられます」
しかし説明を聞き終えた裁判官は、先ほどとは異なる、複雑そうな表情を浮かべていた。
「それだけでは、一人の官僚を有罪とするには根拠が弱い。何か、もっと直接的な証拠でもあれば話は別だが……」
傍聴席からにちゃあという笑みが染み出してくる。財務長官リチャード・アルタープのものだ。
……分かってはいた。これだけの証拠では彼を捕まえられないことは、最初から分かっていた。
だからこそ今私がすべきことは、ロルフが、殿下が証拠を持ってくるまで裁判を繋ぐことだ。きっとこの機会を逃せばいくら再び裁判を起こそうとも、財務長官は決して出頭に応じない。彼が傍聴席にいる今この瞬間だけが、最初で最後のチャンスなのだ。
それから私は、思いつく限りの証拠を裁判官の前に並べ立てた。最初のうちはそれなりに筋の通ったことが言えていたが、一時間も経たないうちに話が支離滅裂になっていく。
それでも口を開き続けた。しかし、やがて酸欠になったのか膝が折れ、四つん這いになって倒れ込んでしまう。何とか息を整えながら横を見ると、財務長官が席を立とうとしていた。
待って、待って。そうして思わず傍聴席に腕を伸ばしかけたその瞬間、裁判所の扉が勢いよく開いた。
揺れる視界の中、現れた人影が段々と輪郭を得ていく。
「……ロルフッ」
財務長官がぴたりと動きを止める。張り付いていた笑顔が消え、苦いものが顔一面に広がっていく。
その一方で私はロルフの姿が目に入った瞬間、安堵と喜びが同時に胸の奥から溢れ出していた。
彼は大きな袋のようなものを抱えながら、裁判官の元へ歩み出る。袋の口から中身が少し覗いていた。
どうやら山ほどの紙幣が詰め込まれているようだ。
「こいつはまだ一部だが、リチャード財務長官の奥方の実家。その系列の商会から見つかったものだ」
ロルフはかばんからいくつかの札束を取り出す。そして懐から引き出してきた筒状の物体から光を当てると、札束に書かれた文字が不自然に輝き始めた。
その光景を目の当たりにした瞬間、財務長官の顔が今までに見たことのないほどに歪む。
「補助金に当たる紙幣。こいつらには印刷のタイミングで特殊な塗料が塗られていた。つまり、各領にて使用されるはずだった補助金がそのままこの王都にまで逆流してきたということになる」
ロルフは一拍の間を置き、結論を告げる。
「これこそが財務長官が補助金を自分の懐に入れていた。そのなによりの証拠だ」
瞬間、財務長官リチャードが憤慨した様子で叫んだ。
「何が"証拠だ"だ! そんなものはお前がでっちあげたに決まっている!!」
怒りに任せるリチャードに対し、ロルフは落ち着いた様子で平然と言ってのける。
「塗料が塗られていたと言ったはずだが」
「お前が勝手に塗ったんだろう!!」
いつもの薄ら笑いも、丁寧な言葉遣いすらも忘れ、ただ怒鳴り散らすリチャード。その姿は探偵に追い詰められた犯人そのものだった。
そんな様を横目に、私は口を開く。
「補助金への塗布はロイ五世、現在の国王様によるご命令です。お金の流れを可視化する目的で唱えられました。命令書ならばこちらに」
書面を財務長官へと渡す。
怒り、恐怖、絶望、色々な感情を浮かべながらリチャードは体をわなわなと震わせる。
ちなみに塗料の件は国王さまではなく、殿下の指示だ。しかし裁判に当たり殿下は国王の命令書を手に入れてきていた。本人いわく父に対して死ぬほど駄駄をこねたのだという。
「この命令書にある通り、特殊な塗料の塗布は国王様のご命令です。そして使われた塗料の仕入れルートは王家により占有されております。一介の貴族が手に入れられるものではございません」
これも殿下から事前に聞かされていた情報だ。
しかしこれだけの事実を示されても、リチャードは受け入れる素振りを見せなかった。むしろ、今にも飛び掛かりそうな剣幕で私とロルフを思い切り睨みつけている。
殺し合い直前のような、ひりついた空気が法廷全体を覆う。
それを破ったのは、裁判官のガベルだった。
かんかんという乾いた音が法廷に鳴り響く。
「これだけの証拠を示されたならば、認めざるを得ない。財務長官リチャード・アルタープ。貴殿を有罪、禁固刑とする」
瞬間、耳をつんざくような叫び声が響き渡った。
「ふざ、ふざけるなぁぁぁぁ!!!!」
傍聴席からリチャードがこちらへ向かって突進してくる。
その迫力に思わず腰が引けてしまう。恐ろしい。怖い。そんな感情が胸の内から広がっていく。
しかし彼が私のところに到達することはなかった。ロルフが冷静に、的確に蹴りを叩き込んだからだ。
ロルフの足が触れた瞬間、鈍い音がして吹き飛ぶリチャード。背中を強打したようで、ごほごほと苦しそうにむせながら四つん這いになってうずいている。そんなリチャードに対し、ロルフは剣を向けた。
「いいか。次に彼女に手を出そうものなら、俺は即座にお前の首を斬る。王都だろうと、地獄だろうと、どこにいようが必ずお前を殺す」
その瞳にはいつか野盗を追い払ったときのような、冷たい殺意が宿っていた。その眼差しに射抜かれ、財務長官はひっという情けない声を漏らす。
そんな光景を、私はどこか現実離れした心持ちで眺めていた。因縁の相手。辛酸を舐めさせられた相手。そんな人物の情けない姿を見て、胸がすっとしないかと言われれば嘘になる。でもそれ以上に、もうすぐで終わる。その事実が眼前に迫っている現実の方が、何よりも嬉しかった。
そのとき突如、ぱん、と手を叩く乾いた音が法廷に弾ける。
「一部始終、見させてもらった」
釣られるように、その場の全員が声のする方を向く。傍聴席の入口近く。そこに立っていたのはロイ五世、国王その人だった。
「リチャード」
冷たく言い放つ国王の一言に、リチャードは体をびくっと震わせ、恐怖に染まった表情のまま俯く。
「ただいまよりお前を財務長官より解任。また、一連の不正に関わった者を把握するため大規模な調査機関を発足させる」
国王はリチャードをひと目見やる。
「知っていることは全て吐いてもらうぞ。運がよければ禁固刑で済ませてやる」
家柄も、地位も、金も、積み上げてきたもの全て——一瞬にして失った元財務長官は、諦観と悲観を兼ね備えたような顔でうなだれた。
これで、終わった。裁判をやって、ロルフが来て、国王様が宣言なさって。
今日だけでも本当に色々なことがあった。それだけではない、これまでも本当に色々なことがあった。 捕まって、幽閉されて、断罪されそうになって。それでも、やっとここまで来た。グラナート領へ戻れるこの瞬間まで。
顔が緩んでいく。緊張が、するすると解けていく。終わったのだという実感が、だんだんと湧いてくる。
勝った、勝ったんだ。その事実が全身を満たしていく。
気づけば口角が上がっていて、しかし目尻はさがり、泣きそうなのか嬉しいのかなんとも言えない表情になってしまっていた。横を向くと、ロルフも同じ顔をしているのが見える。
それから、言葉より先に気付けばロルフに抱きついていた。喜びが感動が熱が広がっていく。
喜びを分かちあうように、二人は抱擁を交わす。今だけは悪魔だろうと天使であろうと、神であろうと邪魔などできない。そんな神聖な時間が、二人の中で静かにしかし確かに流れていた。
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