38話 再起の灯火
目を覚ますと、見知った天井が視界に広がった。
王城での、自分の部屋だ。石造りの壁に差し込む光の角度から、すでに朝は随分と過ぎているのだと分かる。ゆっくりと体を起こそうとした瞬間、異変に気づいた。両手が、小刻みに震えている。
咄嗟に脳裏を駆け抜けたのは、あの夜の記憶だった。
廊下に満ちた殺気。目の前に立った男の、淀んだ殺意。自分を殺そうとしている相手が、確かにそこにいた。その事実を思い出すだけで、体が石になるように固まっていく。リーゼが抱き寄せてくれなかったら。あの時、誰かが助けてくれなかったら。
――そうだ。リーゼは。
思考が一点に収束すると同時に、体が動いていた。シーツをはね除け、素足で石の床を踏む冷たさも構わず扉を開ける。廊下へ出た途端、陽の光が目に刺さって思わず細める。それでも足を止めなかった。
彼女には何度も助けてもらった。調査が行き詰まった時も、あの夜も。人生でこれほど大切だと思える友人は、出会ってきた中でほとんどいない。失いたくない、絶対に。
その想いが焦りとなり、廊下を駆ける。途中、敷かれた絨毯の端につまずいて危うく転びかけるも、なんとか壁に手をつきながら足を急かし続ける。やがてリーゼの部屋の扉の前に辿り着いた時、一瞬だけ躊躇ってから、そっと扉を開けた。
部屋の中には、穏やかな呼吸の音が満ちていた。
白銀の髪が枕の上に広がり、その少女はあまりにも静かに眠っている。あまりの美しさに息をしていないのではないかと思わず歩み寄ると、シーツの上で胸がしっかりと上下していた。
生きている。その事実だけで、全身の力が抜けるような安堵が押し寄せてくる。
ほっと胸をなで下ろした瞬間、背後から声が響いた。
「リーゼの命に別状はないそうだ。ただ少し、疲れているだけで」
振り返ると、殿下が廊下の入口に立っていた。その顔には、ひどい疲労の色が張りついている。眠れていないのだろう。金の髪もいつもより乱れていて、どこか人間らしく見えた。
「下手人はおそらくリチャード・アルタープ。俺の不在時を狙われたみたいだ」
一拍の間を置いてから、殿下は深く頭を下げた。
「君たちには、本当に怖い思いをさせてしまった。すまない」
慌てて首を振る。
「殿下のせいではないです! だから、頭を上げてください」
しかし殿下はなかなか頭を上げなかった。私が繰り返し言葉を重ねて、ようやく彼はゆっくりと顔を持ち上げる。その瞳には、言葉では拭えない何かが残ったままだった。
「本当に、すまないな」
その一言だけを残して、殿下は廊下の奥へ消えていった。
♢
場所は移り、執務室。
殿下は何やら言いにくそうな顔をしたまま、書類の上に視線を落としていた。まだ、昨夜の件を引きずっているのだろうか。確かにあの夜のことは今でも思い出さないようにするのがやっとで、ふとした瞬間に恐怖がよみがえりそうになる。
あの男の瞳の色、刃が空を切る音、喉元に走った冷たい感覚。鮮明に思い出してしまえばしばらく動けなくなってしまうだろう。だから、できる限り近づけないようにしていた。
でもだからといって、殿下を責める気にはなれない。私の調査を基に、彼はずっと動いてくれていたのだから。感謝こそすれ、非難する道理などどこにもない。
殿下はしばらく言いよどむように口をまごまごさせていたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「裁判の日程が決まったんだ。今日から七日後、一週間後の今日だ」
その言葉が胸に届いた瞬間、体の奥で何かがぎゅっと固まった。
準備に準備を重ねてきた。証拠を集め、資料を作り、何度も何度も確認してきた。その全てが報われる時が、ようやく来る。財務長官を断罪する日が。燃え立つような闘志が湧き上がると同時に、それを飲み込むように暗い恐怖が体を這い上がってくる。
「……承知しました」
それだけ言い残し、執務室を後にした。
太陽が差し込む廊下を、一人で歩く。周囲には誰もいない。だからこそ、思い出さないようにしていた記憶がじわじわと這い戻ってくる。目の前に立った暗殺者の姿。殺意の籠った、淀んだ瞳。自分を殺そうとしている相手が目の前にいる。その事実を思い返すだけで、足が止まってしまう。
両手で自分の体を抱きかかえるようにして、震えに耐える。
裁判所であの男の親玉を、リチャード財務長官を目にした時、私はちゃんと立っていられるだろうか。あの暗殺者を操った人物を真っすぐ見据えて、恐怖を押し込め、きちんと弁を述べられるだろうか。
大丈夫。大丈夫なはず。
しかしそんな言葉とは裏腹に、足は一向に動いてくれない。大丈夫、大丈夫、と繰り返しながら石壁に背をつけていると、後ろから聞き慣れた声が届いた。
「どう見ても、大丈夫そうじゃないな」
殿下だった。いつの間に追ってきたのか、廊下の少し後方に立っている。その眼差しはいつになく真剣で、躊躇いの後に口を開いた。
「裁判には、俺が代わりに出よう」
あまりに突然の言葉に、思わず目を瞬かせる。意味を処理しようとして、できなくて、もう一度反芻する。その言葉が事実として胸に届いた時、複雑な感情が一気に押し寄せてきた。
これは私の裁判だ。私の戦いだ。だから私が出る。そう言わなければならない。そう言いたい。でも、口が動かない。体が動かない。
果たすべき役目を、こんな形で手放してしまう悔しさ。しかしそれ以上に、どこかほっとしている自分がいることが、悔しくてたまらなかった。お礼も、反発も、何も言えないまま、気づけば廊下を走り抜ける。そのまま自室へと向かいながら、止まらない足を自分でも持て余していた。
♢
どれほどの時間が経っただろう。
私はベッドの上で膝を抱えたまま、ただ座っていた。視線は窓の外へ向いていたが、差し込む光の移ろいも、遠くに聞こえる城内の喧騒も、何一つとして認識できない。
別に何かを失ったわけではない。なのに、胸には重たい虚無感がどんどん溢れてくる。
殿下のことだから、きっと上手くやってくれるだろう。もしかしたら財務長官を問い詰め、私の容疑も晴れるかもしれない。良いことばかりのはずだ。後悔するようなことは、何もないはず。
それでも、心の靄は晴れなかった。
エゴかもしれない。でも、帳簿の上で起きた不正を解決するのは、私の役目であり意義であると思っていた。
グラナート領へ戻ることが最優先だったのは変わらない。それでも、あの領での日々も、この王都での日々も、今まで積み上げてきた全てを用いて財務長官の罪を暴く。そうして初めて、自分の人生は誇れるものになる。胸を張って、グラナート領へ帰れる。そう思っていた。
グラナート領とは違う星空を、窓から眺める。
私はあの時、殿下に何と言ってほしかったのだろう。何をしてほしかったのだろう。
……分からない。今の自分が何をしたいのか、どうなりたいのかすら、靄の中に沈んでいる。一つだけ分かるのは、こうしていつまでもうじうじと悩んでいる自分が嫌いだということだ。
こんな姿、ロルフには見せられないな、などと思いながら、私はまた膝に顔を埋めた。
それからさらに時間が経った頃、ふと隣に誰かが座る気配がした。
リーゼだろうか。それとも殿下だろうか。いや、違う。どちらでもない気がする。なのに、すごく懐かしいような、体の芯から安心するような、不思議な感覚に全身が包まれる。
恐る恐る顔を上げると、そこにロルフがいた。
瞬間、涙がぽろりとこぼれる。一粒、また一粒と伝い落ち、小雨がいつしか大雨になるように、大粒の涙が次々と零れ落ちていく。
「なんで、ここに」
声が震える。なぜここにロルフが。グラナート領からここまで、馬車でなければ来られない距離がある。それに旅費だって、あの領にそんな余裕は……混乱した頭に疑問が次々と浮かび上がる。しかし、ロルフの大きな手が静かに頭を撫でた途端、全ての混乱が嘘のように収まっていく。
「殿下に呼ばれたんだ。いよいよ大詰めだから、力を貸せとな。ついでに、王城近くを護衛をしろとも言われた」
その言葉を聞いた瞬間、あの夜の記憶が鮮明に蘇った。
意識が遠のく直前に嗅いだ、懐かしい香り。あれはロルフのものだったのか。つまり、あの夜助けてくれたのは――。
その事実を理解した瞬間、胸が焼けるほどに熱くなった。涙がさらに溢れ出し、嗚咽が喉を震わせる。気づけば、ロルフの胸に顔を埋めていた。王子に救われた姫のように、勇者に救われた町娘のように、大切な人の広い胸で小さな子どものようにただただ泣きはらした。
ロルフの手が頭に乗せられ、もう片方の手が優しく背中をさする。何も言わずに、ただそこにいてくれる。彼の体温が、外套越しに伝わってくる。
やがて涙が枯れた頃、静かに顔を上げた。目元が熱い。恥ずかしい、と思う前に、口から言葉が出ていた。
「すみません、取り乱してしまって」
「問題ない。リュシアの貴重な瞬間を見れたからな」
飄々と返してくるロルフに、思わず目を細めて睨む。そのやりとりが懐かしくて、おかしくて、泣き腫らした顔のまま笑ってしまった。
ああ不思議だ。こうしてロルフと言葉を交わすだけで、この人がそこにいるだけで、凝り固まっていた体の芯が少しずつほぐれていく。
でも、やっぱり裁判所に立つ勇気が出ない。そのことが顔に出てしまったのか、ロルフが心配そうに顔を近づけてきた。
「どうした」
あまりの近さに頬が熱くなりながら、全てを話した。財務長官追放の証拠を手に入れる寸前まで行ったこと。その直後に暗殺者に襲われたこと。そして、裁判に立つ勇気がなくなってしまったこと。
静かに全てを聞いたロルフは、大きく息を吸い込み、滲み出る怒気を押し込めるように長く吐いた。その顎の線がわずかに固くなっているのが分かる。そして今度はこちらを向き、静かに口を開く。
「俺はこれから殿下と協力して、財務長官が得る予定の補助金の現物を探り手に入れる。そうなれば、俺達の勝ちだ。だから……」
そこで言葉が止まった。ロルフが珍しく俯く。その横顔が、何かを迷っているように見えた。
「リュシアには酷なことかもしれないが、それでも」
それでも言うと決めたのか、ロルフはゆっくりと顔を上げた。紫紺の瞳が、真っすぐに私を見据える。
「もう少しだけ、一緒に戦ってくれ。戦って、勝って、あいつの負け面を思いっきり拝んでやろう」
枯れたはずの涙が、再び頬を伝った。
ああ、どうしてこの人は、私の欲しい言葉が分かってしまうのだろう。言ってほしい言葉を、言ってほしい人が、言ってほしかった時に言ってくれる。こんなずるくて優しい人が、私の好きな人なのだ。
これで立ち上がれなければ、きっと私は自分を許せない。
私はロルフの目を真っすぐ見据え、涙声にならないよう気を張りながら言葉を返した。
「ええ、やりましょう!」
ロルフが、小さく口元を緩めた。その顔を見た瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。まだ恐怖は消えていない。裁判のことを考えれば、体の奥が冷えるような感覚もある。でも今は、それより確かな熱が胸の中に灯っている。
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