37話 待ち人来たり
殿下の調査によって炙り出された三つの商会は、代表者の名義だけが飾られた抜け殻だったらしい。それが判明してからというもの、殿下は城内と城外を激しく行き来するようになった。
以前は書類仕事の多い調査が続いていたのに、今は外に向かう機会の方が圧倒的に多い。空商会が所有していた土地や倉庫を、片っ端から洗い出しているようだった。
そんな光景を見て私も手伝いを申し出たが、殿下には軽く手を振られてしまった。
「これからは力仕事になるし、君には十分助けてもらった。援軍も頼んであるから、ゆっくり紅茶でも飲んでいてくれ」
そう言われては返す言葉もなく、私は仕方なく城内の事務作業を手伝うことにした。確かに力仕事は向いていない。頭では分かっているのだが、だからといって何もしないでいると、どうにも落ち着かないのだ。
そんな私をリーゼはぽかんとした顔で眺め、やがて呆れたように目を細めた。
「本当に、じっとしていられない方ですわね」
「……そう、でしょうか」
「そうですわ。少しは休むことを覚えてください」
上手く言い返せず、私は不貞腐れるように羽ペンを手に取り直した。
♢
そんな、穏やかとも慌ただしいとも言いがたい日々が続いていた、ある夜のこと。
月が天頂に差し掛かろうかという頃合い、私は体を思い切り前後に揺さぶられて意識が浮上した。夢と現の境界が溶けるような、あの不快な覚醒の感覚。瞼を開くと、目の前にリーゼの顔があった。いつも余裕の滲む表情が、今夜は違う。唇をきつく引き結び、瞳の奥には鋭い緊張が走っている。
何が、と口を開きかけた。しかし彼女の顔から漂う空気がそれを押しとどめた。冗談ではない。何かが、起きている。
私は布団を払い、音を立てないようにベッドから降りた。素足が石の床に触れた瞬間、冷たさが足裏から一気に体の芯まで這い上がってくる。服の乱れを整え、リーゼに向かって小さく頷く。すると彼女は囁くような声で言った。
「敵襲ですわ。王城の警備は万全ですから、抜けられることはないと思いますが……念のため上層のわたくしの部屋まで移動しましょう」
私は黙ってもう一度頷く。それを合図に、二人は扉をそっと押し開け、廊下へ滑り出た。
走る。走る。靴を履く時間すら惜しくて、素足のまま石畳を蹴っていた。床の冷たさが足の裏をじわじわと蝕み、窓の隙間から一筋の夜風が頰を撫でていく。
心臓の音が、うるさいほど鳴り響いていた。
敵襲。命の危機。スラム街の路地裏で野盗に囲まれたあの夜と同じ感覚。しかし今感じているのは、それとはまるで種類の違う恐怖だった。あの時は、失うものが少なく後悔も小さかった。でも今は——今は、大切なものがあまりにも多すぎる。今死んでしまったら、とてもじゃないが死にきれない。
突き当たりを曲がるたびに、角の向こうから誰かが現れるのではないかと血の気が引く。背中のどこかに視線を感じるような錯覚が何度も走り、体が竦みそうになる。
それでも足を止められないのは、リーゼが手を握ってくれていたからだった。指先から伝わってくる確かな体温が、暗闇に吞み込まれそうな心に細い光を灯してくれていた。
一人じゃない。ただそれだけのことが、これほど人を前へ進ませるのだと、走りながら思う。
階段をいくつか上り、息を切らしながら廊下を進む。リーゼの部屋のある階まで、あと少し。その「あと少し」という油断が、全ての始まりだった。
緊張の糸が少し緩んだのだろう。私の足音が、知らず知らずのうちに大きくなっていた。次の瞬間、体が思い切り後ろへ引き戻される。
直後、鋭い金属音。
衝撃で二人とも廊下に転がった。頭の中が白く弾けるような感覚。視界がぐらりと歪み、天井が回っている。脳震盪を起こしたかのような眩暈の中、それでもなんとか周囲を確かめようと首を巡らせる。
どうやらリーゼが私を思い切り引き寄せたらしく、二人まとめて床に倒れ込んでいるようだった。
そうして意識を覚醒させていくと頰のあたりに、ぴりっとした痛みが走っているのが分かる。
思わず指を当ててみると、一筋の切り傷の感触が指先に触れた。ゆっくりと後ろを振り返ると、石の床に一本のナイフが転がっている。刃が月光を細く反射しているのが見える。どうやら、誰かが私に向ってナイフを投げたらしい。
リーゼが引き寄せてくれなければ。
その先を想像した瞬間、感謝よりも先に恐怖が胸の奥から溢れ出してきた。体が震え、視線が揺れる。
おそるおそるといった様子で震える視線を前へ向けると、そこに影があった。
廊下の暗がりに溶けるように、人影が一つ立っている。気配を感じた瞬間、心臓がどくりと重く鼓動を刻んだ。体の奥から、言葉にならない何かが這い上がってくる。
怖い。怖い。怖い。
いつかスラム街の暗がりで、覚悟したはずの死。あの時は諦めることもできた。でも今は——今だけは、目の前の影が、迫りくる死が、何よりも恐ろしいものに見える。大切なものが増えたから。未練が増えたから。ロルフの顔が、ユリウス伯の声が、リーゼの手の温もりが、次々と頭を過ぎっていく。
死にたくない。終わりたくない。まだやらなければいけないことがある。やってみたいことも、会いたい人も、戻りたい場所も——まだ全部、残っている。
瞬間、影が動いた。だっという踏み込みの音と共に、黒い塊が迫ってくる。私は目を固く閉じ、体を強張らせた。衝撃に備えて、息を止める。
次の瞬間。ざしゅ、という、湿った音がする。それから間を置かず、何かが廊下に崩れ落ちる音。血の匂いが、夜の空気に溶けた。
いくら待っても、肌を命を刈り取られる感覚は訪れない。感覚瞼の裏から、恐怖がゆっくりと引いていく。助かった——頭がそう理解した瞬間、全身の力が抜け落ちた。膝が、腕が、意識が、まるで糸を切られたように崩れ落ちる。
しかし意識が朧気になり視界が暗くなっていく中、誰かに抱き留められる感触があった。
過呼吸に近い私の呼吸音が、その腕の中で不思議と落ち着いていく。微睡みに引き込まれながら、私はその人の匂いに気がついた。
懐かしい匂い。嗅いだことのある、確かな温もりを伴う匂い。意識が遠のく直前、その香りが安堵の形をとって胸の奥に広がっていった。そうして確かな温もりに意識を委ねていると、暗闇の向こうから低く静かなしかし長らく焦がれていたような声が聞こえる。
「やっと会えたな。リュシア」
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