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36話 見つけた

 王城に戻ると、廊下を渡る空気の質が変わっていた。朝と同じ石造りの壁、同じ灯りの配置、同じ遠くで鳴く衛兵の足音。それなのに、何かが違う。

 肌の上を薄い刃のようなものが撫でていく感覚がして、私は思わず足を止めた。ひりついた殺気のようなもの、とでも言えばいいのだろうか。城内に漂うこの空気に、胸の奥がじわりと冷えていく。


 気のせいだろうか。いや、違う。これはただの気のせいではない。

 自分にそう言い聞かせながら、私は努めて自然に廊下を歩いた。違和感はあれど、駆け込む理由もない。まずは部屋に戻り、今日の作業の続きを進めなければ。そう思いながら自室の扉に手をかけると、扉がわずかに開いた。


 瞬間、足が止まる。部屋には鍵をかけていたはずだ。少なくとも、出る前にはそうしていたはず。波打つ心臓を制しながら、私はゆっくりと扉を押し開ける。


 すると、部屋の中にとある人影が見えた。

 窓から差し込む夕刻の光の中に、大柄な体が影を作っている。机に向かい、なにやら紙を眺めている男の背中。私は息を詰め、一歩だけ足を踏み入れる。その気配を察したのか、男はゆっくりと振り向いた。


「――リチャード様」


 影の正体、それは財務長官であった。彼は薄ら笑いを口元に張りつかせながら、丸みを帯びた体でこちらを見る。どこか油を塗ったように滑らかな笑み。それだけで、皮膚が粟立つような不快感が走る。


「これはこれは、リュシア殿。あなたの部屋とはつゆ知らず失礼を」


「いえ、別に構いませんが」


 声が揺れないよう、腕に力を込めた。震えを悟られてはいけない。この人に弱みを見せてはいけない。本能がそう警告していた。


「殿下に用があったのですが、どうも道に迷ってしまったようで」


 彼は片手を軽く上げ、おおらかに笑ってみせる。しかしその目は笑っていない。獲物を定めたハンターのような、鋭く冷えた目が机の上をゆっくりと這う。


「それよりも、この机に置かれている紙は何でしょう」


 心臓が一瞬、力強く跳ねた。


 机の上の紙束に目をやり、素早く頭を回す。補助金や財務長官自身に関わる資料は、鍵のかかる場所にしまい込んである。人目に触れては不味いものは残っていないはずだ。

 しかし、数字の羅列が書かれた計算用の紙は別だった。整理途中のそれが数枚、無造作に机の上に広がっている。

 きっとあれだけ見ても、何の計算をしていたかは判別できないだろう。だから、何とか言い訳さえできれば。


 頭をフル回転させる。しかし、肝心の言葉が出てこない。こんな時に限って、すらりと口をつく言い訳すら思い浮かばない。顔から血の気がどんどん引いていく。

 その瞬間、ぽん、と肩に両手が置かれる。


「それはわたくし、ひいては殿下がリュシア様にお頼みしたものですわ」


 リーゼの声だった。

 低く、しかし落ち着いた声音で、彼女はリチャードを真正面から見据えながら続ける。


「隣国の経済状況について、過去十年分を遡り我が国でも応用できる施策がないか探るために彼女に調べてもらっていたのですわ」


 財務長官の探るような視線が、リーゼの顔の上でしばらく漂う。蛇のような目が、彼女の言葉の裏を探っていた。


 それでもリーゼはまんじりともせず、ただ静かに彼を見つめ返していた。


 数秒の沈黙が、針で刺すように長く感じる。


「そうでしたか。てっきり私を探っているものかと」


 やがてリチャードは口を開き、おおげさに手を広げながら笑う。


「しかし勘違いだったようです。いやぁ、よかったよかった」


 朗らかな笑い声。だが目だけは、極寒の冬の朝のように冷たいままだった。


「では、失礼致します」


 そう言って彼は私たちの脇を抜け、廊下へと出ていく。


 すれ違いざま、一瞬だけ目が合った。底なしの沼のような、濁った暗い瞳。その奥に渦巻くものを感じ取った瞬間、私は悟る。疑いは晴れていない。彼はただ一時引き下がったに過ぎないのだ。


 遠ざかる足音が、やがて石の廊下に消えた。


 その音が完全に聞こえなくなった瞬間、私は力が抜けたようにその場にへたりこんだ。    膝が石の床についた衝撃すら、よく分からない。続いてリーゼも静かにしゃがみ込む。

 二人は言葉もなく、そっと手を繋いだ。それだけで、胸の中でぐるぐると回っていたものが少しだけ落ち着いた気がした。


「奴は絶対何か仕掛けてきますわ。念のため、わたくしもリュシアの部屋で寝るように致します。いいですわね?」


 私はおずおずと頷く。


「よろしい」

 リーゼはそう言い、にこりと微笑んだ。彼女のその笑顔が、今はひどく心強く感じられる。



 ♢



 それから、私はギリウスの忠言を基に調査をやり直していた。


 リーゼも殿下に話を通し、通常業務を休止しながら手伝ってくれている。

 この前の財務長官の一件といい、彼女には助けられてばかりだ。いや、彼女だけではない。ロルフにも、ユリウス伯にも、そして複雑な経緯は抱えつつも殿下にも、ここまでの道のりで幾度となく支えてもらってきた。


 ちゃんとお返しをしないとな、とリーゼの横顔を見ながら思う。


「何か、ほしいものはありませんか」


「どうしましたの急に」


「この前のお礼をしたいなと思いまして」


 その発言を聞いた瞬間、リーゼは大きく溜息をついた。呆れきった顔でこちらを見て、人差し指を私の額にぐりぐりと押しつける。


「いいこと? 何か恩を感じたのなら、品物でなく言葉で伝える。それが、対等な人間関係というものですわ」


 じりじりと迫られる圧に、私は思わず少し後退った。


「まさか、これまでも施し返していたわけではないですわよね」


 その問いに、心臓がどきりと跳ねる。以前ロルフがペンダントをくれた時、確かに送り返したことがある。だが毎回そうしていたわけではなかったはず……たぶん。


 若干顔をこわばらせながら首をふるふると振ると、リーゼはようやく引き下がった。


 ふうと胸をなで下ろしながら、彼女の言うことはもっともだと感じていた。

 誰かに助けられるたびに何かを贈っていたら、あっという間に家計が底をついてしまうだろう。その情景がなんだかおかしく感じられて、思わず口元に笑みがこぼれる。

 そして私はリーゼに向き直った。


「ありがとうございます。リーゼ」


「どういたしましてですわ。リュシア」


 二人の間に、なんともいいがたい生温い空気が流れる。なんとなくおかしくなって、気づけば二人して笑っていた。


 それから一週間、私とリーゼは一心不乱に紙と机に向き合い続けた。

 財務長官リチャードの妻の実家。その血筋の者が経営する商会は全部で七店舗。ソリューシ商会の取引記録を当たっても、この七店舗との直接の取引は一件も確認できなかった。


 しかし、ソリューシ商会からいくつかの商会を経由すると、七店舗のいずれもが関わりを持っていることが分かってきた。つまり補助金の受け皿であるソリューシ商会と七店舗の間には、間接的ながら確実な繋がりが存在していたのだ。


 問題は、七店舗のうちどの商会に補助金が流れ込んでいるのかということ。


 顎に手を当て、窓の外から差し込む光の中で考える。遠くで鳥が鳴き、外を通る風が石壁の隙間で小さく唸る。

 そんな環境音に意識を漂わせていると、ふとギリウスのあの言葉が蘇ってきた。

 ――分割しているのではないか。


 そうだ。何も一つの商会に絞る必要はない。複数、あるいは全ての商会を隠れ蓑として使っている可能性だって、おおいにある。手が震えるような予感を抑えながら、私はその観点で資料を漁り直した。


 結果、三つの商会が浮かび上がる。

 ソリューシ商会からいくつかの商会を経て、この三つへと流れ込んでいる金の動き。その金額を足し合わせてみると、ぴったり補助金の総額と一致した。


 思わず手が止まる。そしてもう一度、数字を見る。

 見間違いではない。何回と計算し直しても、結果は同じ。胸の奥で何かがほどけるような、それでいてじわじわと熱くなるような感覚が広がっていく。


 私は急いで部屋を飛び出し、廊下を駆けた。石畳が足音を弾く。


 そうして殿下のいる執務室の前に辿り着くと、ノックもそこそこに扉を開ける。

 ばん、と激しい音が王城に響いた。


「どうした」


 驚いて体を振るわせた殿下が、こちらをまっすぐ見る。



「見つけたんです!」


 興奮が声を上ずらせる。それでも構わず、殿下に向かって踏み込んだ。


「補助金の流れつく先を、見つけました!」


 瞬間、殿下は椅子を蹴るように立ち上がる。


「本当か!?」


 私は頷き、結論に至るまでの経緯を順に説明する。ソリューシ商会から複数の商会を経由すること、七店舗との間接的な繋がり、そして分割という発想から浮かび上がった三つの商会と、補助金の金額が一致したこと。


 殿下はそれを黙って聞いていた。そして聞き終えると、目を輝かせながら近くにかけてあった外套を手に取り、素早く羽織る。その動きに迷いはなく、すでに頭の中で次の手を考えているようだった。


「その三つの商会を、徹底的に調べ尽くす。これで奴はチェックメイトだ」


 執務室を出る直前、殿下は一度足を止めた。振り返ると、その目が真正面から私を捉える。いつもの即断即決の眼差しとは少し違う、どこかほぐれたような瞳で。


「ここまで本当に助かった。感謝してもし足りない。礼はいずれ必ず」


 そう言い残すと、殿下は颯爽と廊下へと消えていった。


 しばらく扉を呆然と眺める。だんだんと、肩の力が緩くなっていくのが分かった。一週間分の緊張が、潮が引くように少しずつ抜けていく。


 そして自室のベッドで静かに眠りにつく。その夜は、いつになく深く眠れた。枕に頭を乗せた瞬間から意識が沈んでいき、夢すら映らない。極上の眠り、とはきっとこういうことを指すのだろう。

 目が覚めた時、窓の外はすでに白んでいて、部屋に差し込む朝の光が、机の上の紙束を静かに照らしていた。

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