35話 光明
あれから、私はリーゼの言いつけをできる限り守りながら調査を続けていた。
週に一度の休みを確保することを条件に、彼女は余計な口を挟まずにいてくれる。リーゼは通常業務の合間に手伝ってくれていた。二人で仕事をして、偶に休憩しながら語り合う。その時間がすごく心地いい。
彼女が淹れる紅茶はいつも適切な温度で、たわいない話をしながら窓の外を眺めているだけで、凝り固まった肩がじわりとほぐれていく気がした。
資料の山を前に、ペンを走らせる。ソリューシ商会と財務長官リチャード・アルタープ。この二点を軸に調査を重ねてきたが、証拠らしい証拠はまるで掴めない。尻尾すら見えないのに、確信だけはあった。この二つの間に、必ず繋がりが存在する。そう信じてペンを動かし続けているが、数字はいつも途中で途切れ、帳簿は白々しく正常な数値を並べていた。
とある昼下がり、私は小さく息を吐きながらペンを置いた。
窓の外に目を向けると、王都の街並みが穏やかな光の中に広がっている。石畳の上を行き交う人々の影が細く伸び、屋台の煙がゆっくりと空に溶けていった。グラナート領の、あの澄んだ空気とはまるで違う。それでも眺めていると、少しだけ頭の中の靄が晴れる気がした。
財務長官、リチャード・アルタープ。アルタープ家。
ぼんやりと思考を回しながら、その名前を頭の中で転がしてみる。元々リチャードは決して高貴な家柄の出身ではなかった。彼がここまで権力の座に上り詰められたのは、ひとえに妻の実家の力によるところが大きい。
そうだ。妻の実家。なぜ今まで、そちらを調べようとしなかったのだろう。
手詰まりを感じると、どうしても目の前の壁ばかりを見てしまう。しかし壁を越えられないならば、回り道を探すべきだった。私は急かすような気持ちを抑えながら、今度は財務長官の妻の実家に関する資料を引っ張り出し始めた。
♢
それから一週間が経った頃には、私の表情に少しばかり生気が戻っていた。ただし険しさは相変わらずで、むしろ思考の密度が上がった分だけ眉間の力が増しているかもしれない。
妻の実家を調べてみると、気になる事実が浮かび上がってきた。その一族の中には、商会を経営している者がいくつか存在していたのだ。その事実を知った瞬間、一歩だけ真実へ近づいたという確かな感覚があった。きっとこの商会のどれかが、財務長官の隠れ蓑として機能しているのだろう。
しかし、どの取引記録を丹念に当たっても、補助金の流れは見えてこない。
ソリューシ商会と妻の実家の商会との取引記録も存在しない。莫大な金額の動きも見受けられなかった。一歩近づいたことは間違いない。それでもその先で、私は地団駄を踏んでいた。
何が足りないのだろう。発想か、資料か、それとも単純に時間が足りないのか。答えは出てこない。今いくら考え続けても、どこかで頭が壁にぶつかっているのが分かる。そんな予感が、じわじわと確信に変わりつつあった。
椅子を前後に揺らしながら腕を組んでいると、扉がコンコンとノックされた。
「どうぞ」
「失礼しますわ」
部屋に入ってきたのはリーゼだった。私の顔を一瞥した彼女はすぐにむっとした表情を作り、迷いなく近づいてくる。
「根を詰めるなと言いましたわよね~」
語尾を伸ばしながら、彼女は私の頬をぎゅっとつねった。
「ちゃ、ちゃんと休んでます」
「なら、いいですわ」
ぱっと手を離すと、彼女は何事もなかったような顔で言葉を続ける。
「少し、お出かけしませんこと?」
♢
王都の街を歩くのは、おそらくこれが初めてに近い。なぜなら、常に王妃教育や勉学・仕事に明け暮れていたからだ。
行き交う人々の表情はグラナート領の方がずっと活き活きしているように感じた。しかし建物の外観や店の種類、何より街全体の煌びやかさは段違いで、石畳の道沿いに並ぶ商店のひとつひとつが丁寧に磨き上げられた宝石のように見えた。街並みだけならば、この国一の都市と言われても確かに納得できる。
私が物珍しそうに首を動かしていると、リーゼが隣で微笑みながらそれを眺めていた。
「まるで初めてみたいな態度ですわね」
「きちんと見て回ったのは初めてかもしれません」
「でしたら、目一杯楽しまないといけませんわね」
彼女はそう言って、様々な場所へ連れていってくれた。服屋で生地を手に取り、甘味処ではクッキーを食べ比べした。香水店では何種類もの香りを嗅ぎ比べ、宝石店ではただ見るだけのつもりが思いのほか長居してしまった。
グラナート領では触れる機会のなかったものばかりで、胸がふわりと浮き立つような感覚が続く。いつの間にか体の奥に積もっていた疲労が、少しずつ溶け出していくようだった。
夕刻になる頃、街はオレンジ色の光に包まれ始めていた。
「楽しめましたか?」
「はい、新鮮で貴重な経験ができたと思います」
「それは何よりですわ」
リーゼが柔らかく笑う。束の間の、穏やかな時間。そんな空気に包まれていた私の目に、ふと一つの人影が飛び込んできた。
「刑務官さん」
思わず声が出た。足を止めて振り返ったのは、刑務官のギリウスだった。彼は驚いたように目を見張り、それから複雑な色を浮かべた顔でこちらを見た。
「……リュシアさん」
あの裁判の後から、彼のことが頭の片隅にずっと引っかかっていた。自分の信念を曲げず、危険を冒して資料を用意してくれた人だ。
それなのに、裁判では無罪を勝ち取ることができなかった。結果だけ見れば、彼の覚悟は報われなかったことになる。その事実が、ずっと胸の隅に刺さったままだった。
「資料を無駄にしてしまって、すみません」
頭を下げると、ギリウスは首を緩やかに振った。
「いえ、もういいのです」
その言葉に含まれた柔らかさに、顔を上げる。彼の表情は、どこか以前よりも穏やかだった。晴れた、というよりも、諦念と決意が奇妙に調和したような顔をしている。
「刑務官という仕事も、この街も、私には合わなかったようです。なので、地元で農作業でもやろうかと思います」
辞職と離別。その覚悟を語る声は、驚くほど静かで、落ち着いていた。あの絶望に満ちた法廷での顔を思い返すと、その穏やかさがかえってじんわりと胸に染みてくる。
「あなたはどうするのですか?」
「私は、戦います。戦って、次こそ勝ってみせます」
真っすぐに彼を見ながら、言葉を返した。迷いはなかった。声が揺れなかったことに、自分でも少し驚く。
「……お強いのですね」
ギリウスはそう言ってから、少し目を細める。
「私に何かできることがあればよいのですが」
その言葉に、私は現状のことを正直に話すことにした。ギリウスが数字に明るいかどうかは分からない。しかし財務府絡みの不正案件を長く見てきた人間として、何か気づくことがあるかもしれないという直感があった。
補助金の流れが見えないこと。ソリューシ商会との接点が掴めないこと。妻の実家の商会を調べてもやはり証拠が出てこないこと。思っていたより長くなってしまったかもしれないが、ギリウスは口を挟まずに最後まで聞いてくれていた。
「そうですね……」
しばらく考え込むような沈黙があって、彼はゆっくりと口を開く。
「私の経験した事案ですと、財務長官が関わっていた案件ではないのですが……分割して不正にお金を入手していたものがありましたね。やはり大きい金額が一気に動くのは、それなりに目立ちますから」
分割。その言葉が耳に届いた瞬間、頭の中で何かがひっくり返るような感覚があった。
そうだ、なんでそこに頭が回らなかったのだろう。補助金の金額はかなりのものだ。それをそのままの形で動かせば、誰の目にも留まる。だから分割する。複数の商会に、複数の名目で、少しずつ。そうすれば帳簿上は綺麗に映るだろう。
私はずっと大きな数字の動きを探していたが、探すべきは小さな数字の不自然な積み重なりだったのだ。
手が額に当たっていた。いつのまにか俯いていたらしい。
今は落ち込むより、気付けてよかったと思うことにしよう。この一言で、道が開けた。私は改めてギリウスに深く頭を下げる。
「ありがとうございます。これで道が開けそうです」
顔を上げた時、法廷でのギリウスの顔が瞼の裏に蘇った。司法に、そしてこの国そのものに深い絶望を刻み込んだような、あの顔。長年就いてきた職をああいう形で終わらせていいのかという気持ちが、じわりと胸に広がった。
だから、気がついたら口が動いていた。
「今度また裁判を行うんです。是非、見に来てください」
一拍置いて、続ける。
「今度こそ、勝ってみせますから」
私が勝ったとして、それが彼の救いになるかどうかは分からない。この国の司法への絶望が、一つの勝利で癒えるとは思えない。それでも、彼が王都を去る前に目に焼き付ける最後の光景が、あの法廷での絶望よりましなものになってほしい。それだけは叶えたかった。
ギリウスはすぐには答えなかった。そしてしばらくこちらを見つめた後、静かに「分かりました」とだけ言った。その短い言葉に込められたものが何だったのか私には測り切れなかったが、それでもちゃんと私の言葉受け取ってくれたような、そんな気がした。
もう一度、深く頭を下げる。
それから踵を返し、王城へと続く道を歩き出すと、後ろからリーゼが慌てた足音で追いかけてくる気配がした。急かすような声が背中にかかるが、今は足を止める気になれなかった。
補助金は分割されていた。
頭の中でその事実を何度も転がしながら、私は石畳の上を歩く。妻の実家の商会に向かう金の流れ。それは一本の太い川ではなく、いくつもの細い支流に枝分かれしているはずだ。個別に見れば目立たない額でも、束ねれば莫大な数字になる。そういう形で、財務長官は補助金を手元に引き寄せていたのだ。
道筋が見えた。
今度こそ勝つ。そして今度こそ、グラナート領へ帰ってみせる。ロルフのいる場所へ、ユリウス伯のいる場所へ。その想いを胸の奥にしっかりと収め直しながら、私は王城の門へと向かって歩き続けた。
夕陽が石壁を赤く染めていて、その色が前よりも少しだけ温かく感じられる。
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