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34話 友人

 それからしばらくの間、私はひたすらに資料を漁り続けた。商会に関する全資料、財務長官リチャードに関する全資料、交友関係から家の起源まで、あらゆる情報をかき集める。しかし有効な手がかりはちっとも見つからない。それなのに月日だけは刻一刻と流れていってしまう。その度に、私は焦燥が胸の奥でじわじわと膨れ上がるのを感じていた。


 いつのまにか目の隅は頬まで伸び、髪の毛がいたるところで跳ねている。鏡を見る余裕などなかった。睡眠は平均して二時間程、食事はパン一枚のみ。そんな極限状態にも関わらず、私はペンを走らせ続ける。


 これも違う。これも、これも、これも……こんなに探しているのに、それっぽい数字は一向に見つけられない。

 ソリューシ商会の取引名簿には財務長官の名前はなかったし、怪しい商会も存在しなかった。乗っていたのは全て実在の商会だ。だったら、どうやって補助金は財務長官の懐に入ったのか。手渡し? いや、ありえない。ぼろも出さずに渡しきれるような額ではない。だったら宝石に変えた上で手渡し? いや、商会から宝石に大金が流れた痕跡はどこにも見受けられなかった。それに一月の間に全て換金できるとも思えない。じゃあ、一体どうやって……


 手を額に当てて考え込む。机の前で俯いたまま動かない私の姿に、心配そうな視線がそっと向けられた。リーゼだ。

 彼女は紅茶が注がれたカップを私の元へ静かに差し出す。カップの縁からほのかな湯気が立ち上り、部屋に馴染んでいた紙とインクの匂いに温かい茶葉の香りが混じった。


「少し、休憩されてはどうですの」


 その声音に滲む心配を、聞いているだけで感じ取れる。私は弱々しく微笑みながら「大丈夫です」と言い放ち、またペンを走らせた。


 それから数日が経った頃、私の身に異変が訪れた。視界が揺れる。世界がぼやける。あれ、これは、前にもあったような——



 ♢



 気が付くと、私は部屋の天井を見上げていた。意識が覚醒していくと同時に、自分が倒れてしまったのだと気付く。


 しゃりしゃりという音がして、思わず視線を横に向ける。すると、リーゼがナイフで何やら果物を剥いているところだった。どうやら彼女がベッドに寝かせてくれた上に、看病までしてくれていたらしい。申し訳ない気持ちが胸を刺す。


「お手間を取らせてしまってすみません。もう大丈夫ですから」


 起き上がろうとする私を、リーゼは片手で静かに制した。


「そう言って、倒れたのを忘れましたの?」


 怒っているというよりは、心配の方が多めに含まれた声音。だからこそ、少しだけ罪悪感が刺激される。


「でも……」


 時間がどれだけ残っているか分からない。でもきっと、そこまで遠くないところに決着は迫っている。正真正銘、最後の決着が。だったら寝てなんていられない。早く、早く、早く——


 逸る気持ちが体の奥から湧き上がり、ベッドから出ようとした瞬間、その動きが止められた。そして、リーゼの両手が私の肩にそっと置かれる。真っすぐこちらを見る目には、心配と、そして少しだけ怒りが宿っていた。


「あなたの気持ちは分かりますわ。でも、そのあなたが大事に想っている方々もきっと、あなたに無理をしてほしくはないはずです。違いますか?」


 ……確かに、そうかもしれない。ロルフも、ユリウス伯も。彼らから無茶をしろと言われたことなど一度もない。むしろ、体を労わってほしい。もし今ここに彼らがいたならば、きっとそう言うだろう。でも、でも——


 私は黙ったまま、俯く。言葉が上手く出てこない。そんな私を、リーゼはそっと抱きしめた。


「苦しいなら、悲しいなら、わたくしに話してくださいまし。ここにも、あなたを想う人間はいるんですのよ」


 優しくて、どこか甘い声。こわばっていた心が、じわじわと解きほぐされていく。


 心のどこかで、私の味方はグラナート領だけだと思っていた。王都では一人ぼっちで、敵ばかりなのだと、そう思い込んでいた。

 でも、違う。場所がどこであろうと、彼女のように優しい人間はいる。資料を渡してくれたギリウスのように、味方は確かにいる。一人じゃない。それだけのことが、こんなにも温かくて、こんなにも安心する。


「でも、どうしてそこまで……」


 彼女との接点はこれまでなかったはずだ。どうしてここまでしてくれるのだろう。


 リーゼは私から少し距離を取るとどこか遠くを見るような目になって、話し始めた。


「あなたのことは、ずっと殿下から聞いていましたわ。わたくしはリュシアがいた場所とはまた別の場所で働いていましたから、会うことはできませんでしたけど。だけど理由があるとはいえ、ぞんざいに扱われて可哀想だと……会って、一緒に殿下の悪口でも言ってやろうとずっと思っていたんですのよ」


 その言葉に思わず目を丸くしていると、リーゼはくすりと笑ってから今度は真っすぐ私を見つめた。その瞳には同情ではなく、何か別の感情が籠っているように見える。


「でも、王都で一瞬だけあなたを見る機会がありましたの。そこで見たあなたは強くて気高くて、まるでわたくしの助けなんて必要としていないようで……」


 強かったわけではない、と今の私は思う。ただ、諦めていただけだ。人に、自分に、全てに。そんな私よりも、他人を気に掛けながら働き続けてきた彼女の方がよっぽど強い。そう思う。


「でも、たとえあなたが必要としていなくても、わたくしはこうして側にいたいんですの。話をしたり、聞いたり、そういうことがしたいんですわ。だって、せっかくこうして知り合えたのですから」


 優しさと切なさが混ざり合ったような微笑みを、リーゼは浮かべる。


 彼女そんな顔を目の当たりにして、私は胸がぎゅうっと締め付けられるような感覚に襲われた。


「強くなんて、ないです。いつも誰かに助けられてばかりで、劣等感だらけで。そんなちっぽけで弱い存在が、私なんです。だからっ……」


 そう、だから。


「リーゼがいてくれて、よかったです。あなたに出会えてよかったと、私も思います」


 精一杯の笑顔を作りながら、そう言葉にした。するとリーゼも、負けじとばかりに思い切りの笑顔を浮かべる。


「それならよかったですわ」


 生温い空気が漂う中、リーゼがこほんと恥ずかしそうに咳払いをした。


「わたくしの話ばかりしてしまいましたわ。少しは、あなたの話を聞かせてくださいまし」


 リュシアは少し困ったような顔を浮かべ、でも仕方がないといった様子で話し始めた。

 グラナート領のこと。そこに暮らす人々と街並み、不正や飢餓といった事件、そしてロルフのこと。語り終えると、リーゼがにまにまとした表情でリュシアを眺めていた。


「なるほど。つまりそのロルフ様という男性に会うために、今こうして頑張っていると」


 揶揄うような目で見てくるリーゼ。その言葉を受けた瞬間、自分でも分かるくらい顔が赤くなってしまう。

 それを少し呆れた目で眺めるリーゼが、ひとつ息を吐いてから、静かにぼそりと言葉を足した。


「当たり前のことではありましたが、殿下に勝ち目はなさそうですわね」


 その発言の意味が分からず、思わず疑問符を顔に浮かべてしまう。

 確かに魅力という意味ではロルフの方が上だろう。顔だっていい勝負だ。しかし家柄ならば殿下に軍配が上がる。百人の女性がいたとすれば、五十人は殿下を選ぶのではないだろうか。そんなことを脈絡なく考えていると、リーゼがやれやれといった様子で私を眺めてから、すっと立ち上がった。


「すっかり紅茶が空ですわね」


 両者のカップに、新しい紅茶を注いでいく。湯気が細く立ち上り、茶葉の香りがふわりと漂った。


「ありがとうございます、リーゼさん」


 瞬間、彼女の表情がむっとしたものに変わった。


「こうして紅茶を飲みながらお話した以上、わたくしとリュシアはお友達ですわ。遠慮もさん付けも不要です」


 初めての怒られ方に、少し呆然としてしまう。それからすぐ後に、こんなことで怒られてしまう自分がなんだかおかしくて、笑いがこぼれてしまった。


「ありがとうございます。リーゼ」


 今度はリーゼが納得のいかなそうな顔をする。


「敬語も不要ですわ」


「でも、もうこれが自然になってしまいまして……」


「なら、仕方ありませんわね……」


 頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうにそう返すリーゼ。その様子を見ていると、胸の奥が温かくなる。婚約者とも恋人とも違う距離感に、なんだか新鮮な感覚を覚えた。

 温かくて、くすぐったくて、安心する。ロルフと似ているけれど、確かに違う感情。でも不思議と心地良い温度。


 ふと窓の外に目を向けると、夕刻の光が薄く伸びている。一日がまた、静かに暮れていこうとしていた。

 かつて孤高を気取っていた王都で、今友人ができた。そのことがなんだかおかしくて、嬉しくて、思わずにやけてしまう。なんだか心が少しだけ軽くなったような気がした。

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