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33話 作戦会議

 パン、と乾いた音が部屋に弾ける。どうやらリーゼが両手を叩き合わせたみたいだ。


「では一通り事情説明を終えたところで、次は具体的な方針を決めましょう」


 あっけらかんと言い放つ彼女の声が、まだうまく整理のつかない胸の奥にまで届いてくる。混乱が渦を巻いている最中なのに、その声だけがやけにはっきりと聞こえた。

 そうだ。やることは決まった。だから、感情の整理は後でいい。今はとにかく次の一手を考えるべきだ。

 私は目を瞬かせ、ゆっくりと顔を上げる。リーゼはそれを確認すると、満足そうに小さく頷いた。


「作戦会議を始めたいと思いますわ」


 どこからそれを持ってきたのか、彼女はいつの間にか黒板を室内に引き込んでいた。白いチョークのようなものを手に取り、流れるような所作で「対策会議」と書いていく。メイド服の裾が左右に揺れ、飾りのフリルが動くたびにふわりと広がった。どこか楽しそうに、迷いなく文字を書き進めている。


 その様子を眺めながら、私は胸の内に小さな温かさが灯るのを感じた。ロルフと伯と、あの執務室で帳簿を広げて議論していた時間を思い出す。数字を前に、次の手を探していた夜のことを。

 なんだか遠い話に感じるのに、どこか近くに感じる。


「殿下が諸々の準備を整えてくださったお陰で、あとは財務長官の不正の証拠を見つけられれば断罪の道が開けますわ。つまり、今必要なのは証拠。ではリュシア様」


 リーゼが人差し指をまっすぐ私へ向けた。勢いに思わず体が跳ねる。


「な、なんでしょうか」


「どんな証拠を集めればよろしいと思います?」


 どんな証拠か。それは、考えるまでもなく——


「補助金の不正受給に関してでしょうか」

「正解ですわ!」


 リーゼはにこりと笑い、親指を勢いよく立てた。その奔放さに、私は思わず苦笑いが漏れてしまう。こんな人と出会ったのは、初めてかもしれない。


 ただ、笑っているだけではいられない。

 補助金の不正ならば、以前にも証拠として裁判官のもとへ持参したことがある。しかしあの書類は破り捨てられてしまった。

 同じ資料があれば証拠の再現は可能なはずで、さらに言えば補助金を流していた王都の大商会の元頭取が財務長官だという事実そのものが何よりも雄弁な証拠になりうる。しかし、きっとそれだけでは足りない。


 私の懸念を察したように、リーゼが口を開く。


「ただ、今用意できる証拠では不十分ですわ。紙の記録だけならば、簡単に言い逃れができてしまいます。あるいは、別の誰かに罪を押し付けられてしまう。いずれにせよ、そのような証拠では財務長官殿には届き得ませんわ」


 確かに、その通りかもしれない。私ですら辿り着けた事実に、他にも気づいた人間はいたはずで、それでも今まで誰も財務長官を追い詰められていないのだから。証拠の質が、決定的に問われる。

 どんな証拠なら足りるのか。頭の中で可能性を並べ始めると、リーゼは得意げに顔を上げた。


「実はここだけの話、補助金に使われた紙幣にはとある特殊な目印を付けておいたのですわ。ね、殿下」


 ウインクをしながら殿下へ視線を向けるリーゼ。殿下は小さく息を吐き、静かに説明を始める。


「紙幣を製造する際には通常、汚れ防止の塗料を使う。だが今回の補助金に当たる紙幣だけには、特殊な塗料を混ぜておいたんだ」


 そう言いながら殿下はどこからか小さな筒状のものを取り出し、部屋の灯りを消した。刹那、筒の先端から一筋の光が伸びる。光は壁際の書棚へ向かい、とある一冊の背表紙を照らし出した。


 私は照らされた表面を目を細めて見る。すると、そこには光輝く文字があった。


 少し前まで確かに何の変哲もない背表紙だったはずの場所に、光が反射し文字が煌めいている。

 私はもう一度確かめるように視線を動かす。しかし部屋の中で光る文字を使った装飾は、この本以外には見当たらない。


「この塗料が塗られたものに特殊な光を当てると、そこの背表紙のように光る。そういう仕組みだ」


 殿下は筒を下ろし、部屋の灯りを戻した。背表紙の文字は、何事もなかったように元の落ち着いた色へ戻っていく。


「確かに。これならば財務長官に気づかれることなく、補助金の現物を証明できると思います」


 自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。それだけ今まで経験してきた積み重ねがある、ということだろうか。しかしそんな顔の裏で、私の思考はもう次の問題に当たっていた。


 このインクを活かすには、補助金の現物が必要になる。財務長官が今この世で最も警戒しているであろう、補助金の現物が。

 もし私が財務長官の立場ならば、受け取った補助金をそのまま手元に置き続けるだろうか。いや、そんなことはしない。さっさと宝石や手形に換えてしまえば、証拠との結びつきを断ち切ることができる。それが賢いやり方だ。


「……君の懸念は分かる。だが、今年分の補助金はまだロンダリングされていないはずだ。補助金が各領に支給されたのは一月程前のことだからな」


 私の考えを読んでいたかのように、殿下が先回りして答える。


 確かに、一ヶ月では換金まで手が回っていない可能性が高い。ということは、現物はまだどこかに隠されているはずだ。問題は、どこに——


「奴がどこに隠したのかは分からないが、資金の流れを辿ればヒントぐらいは出てくるはずだ」


 殿下はそう言うと、どこからか一冊の名簿を引き出した。表紙を見ると、見覚えのある名前が記されている。


「ソリューシ商会の取引名簿だ。財務長官へ金を流しているとみられる商会で、これを丁寧に当たっていけば何か手掛かりが見えてくるはずだ」


 ソリューシ商会。その名前はグラナート領の帳簿でも目にしたことがある。徴税官が補助金を横流ししていた王都の商会が、確かその名前だった。点と点が、また一本の線で結ばれていく感覚に襲われる。


 殿下はページをぱらぱらとめくりながら、少し間を置く。それから顔を上げ、こちらを見た。いつもの即断即決の眼差しではない。どこか迷いを含んだ、自信の薄い目だった。


「悪いが俺には公務があって、直接手伝ってやれない。それでも、引き受けてくれるか」


 私はその目を真っすぐ見据えながら、迷わず答える。


「はい」


 一言だけ。けれどそれで十分だと思った。


 殿下は柔らかく微笑み「リーゼをここに残す。彼女を手伝ってやれ」と言い残すと、静かに部屋を後にした。扉が閉まる音が、石の壁に小さく響いて消えていく。そして部屋には私とリーゼの二人が残された。


「さて、やりますわよ」


 リーゼは袖をたくし上げながら言った。メイド服の白い袖口が折り返され、細い手首が覗く。その表情は先ほどよりも引き締まっていて、しかし目の奥にはどこか火のような光が宿っている。楽しんでいるのか、それとも戦闘態勢なのか、どちらとも取れる顔をしていた。


「ええ。やりましょう」


 私は静かに、しかし確かな覚悟を込めて答えた。

 胸の内で、何かが固まっていく感触がある。恐怖がないわけではない。財務長官は強大で、これまで何人もの人間がその手の前に沈んでいった。それを私は知っている。それでも、もう一度戦うと決めている。

 ロルフと伯と過ごしたあの領地へ、必ず帰ってみせるのだと、その想いだけが今も私を動かしていた。

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