32話 追放の真実
殿下が向かっている場所が、かつての私の部屋だと気づくまでに、さほど時間はかからなかった。
王城の廊下の突き当たりを曲がった瞬間、見覚えのある扉の形が視界に飛び込んでくる。鉄製の取っ手、その上に彫られた小さな花の意匠。王妃教育の合間に何度も素通りしてきたはずなのに、指でなぞれば感触まで思い出せそうで私は思わず立ち止まった。
扉を押し開けると、当時の面影がそのまま残っていた。窓際の書き物机、その横に並んだ本棚、日差しを受けてうっすら埃の舞う絨毯。何もかも、ひどく懐かしい。と同時に、ひどく遠くも感じる。
レオニス殿下は私を部屋へ通すと、一言も言わずに踵を返した。彼の扉へ向かう背中を見た瞬間、私の体が言葉よりも先に動く。
「ま、待って下さい! さすがに説明して頂かないと、困ります」
少しばかり責めるような口調になってしまったなと思う。それでも、責める気持ちがなかったのも本当だ。婚約破棄のことも、王都にいた頃の数々の無視も、全て過去のこと。それに今日、殿下は私を助けてくれた。感謝しこそすれ、恨みを抱く理由など何一つない。
ただ、今回ばかりはさすがに説明が無さ過ぎる。裁判を止め、手首を引いて廊下を歩き、王城まで連れてきて、それで説明もなしに立ち去ろうとする——単に気まぐれを起こされたと言われた方が、まだ納得できるかもしれない。けれど、おそらくそういうわけではないのだろう。
殿下の目には、狂乱に潜む者とは違う光が灯っていた。理知的で、論理的で、ある種の覚悟めいたものが宿る、そういう目だ。
私は殿下の腕を掴みながら、真っすぐその顔を見る。彼はすぐに視線を逸らしたが、無理やり立ち去ろうとはしなかった。それだけで、少しだけ安堵する。
それからどれほど時が経っただろう。数分か、数時間か。時計の針の音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。殿下は話す気がないようで、私もなんて声を掛けていいのか分からずただ、互いに動かないまま膠着した時間が積み重なっていく。このまま朝を迎えるのかと思い始めた頃、一際明るい声が室内に飛び込んできた。
「二人とも、何をやっているのです!」
扉を押し開けて入ってきたのは、メイド服をまとった少女だった。肩まで伸びた白銀の髪が、勢いよく入室したせいでふわりと乱れている。彼女は殿下と私の間に迷いなく割り込んでくると、両手を腰に当て、呆れたようにため息をついた。
「……リーゼ」
殿下が小さく名を呟く。どうやら、それが彼女の名前らしかった。
「殿下。連れてきておいて説明もなしにはいさよならは、さすがにどうかと思いますわ」
リーゼと呼ばれた少女の声には、はっきりとした呆れが滲んでいた。殿下はその言葉に反応することなく、後は任せたと言わんばかりの一瞥をリーゼに向けてから、また扉へと向かう。
しかし、扉に手を掛けても出ていくことはできなかった。リーゼが殿下の袖をしっかりと掴んでいたからである。
「これは殿下自身が始めたことでしょう? でしたら、ご自分の口で説明するのがせめてもの誠意だと思いますわ」
責めるような瞳で殿下を見据えるリーゼ。しかし殿下は表情一つ変えず、黙ったままだった。
その状態で膠着したままさらに時間が流れ、リーゼは呆れ果てたようにため息を吐くと、今度は私の方へ向き直った。
「主の数々の非礼をお詫び申し上げますわ。大変申し訳ありませんでした」
裾を掴みながら深く頭を下げるリーゼ。その全身から、本当に申し訳ないという気持ちが伝わってくる。
事情も何も分からないまま突然謝られ、私は思わず狼狽してしまう。
「あ、頭を上げて下さい!」
彼女が何を謝っているのか、見当もつかない。ただ、彼女は主のためだけに頭を下げている。そんな人を、謝らせたまま放っておくわけにはいかない。私の言葉が効いたのか、リーゼは言う通りに顔を上げ、そして柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。お優しいのですね、リュシア様は」
屈託のない笑顔だった。ばたばたとした流れの中でようやく彼女をまともに見ると、リーゼという女性はとてつもない美少女だということに気づく。国内でも随一の整った顔立ちに、芯の強そうな固い意志が宿ったような瞳をしている。もし彼女が看板娘を務めるお店があれば、瞬く間に行列ができてしまうに違いない。
私にもこれほどの美しさがあれば、ロルフをどきっとさせられるだろうか——そんな思考が頭をよぎりかけて、すぐに打ち消す。今はそんなことを考えてる場合じゃない。
小さく息を吐き、そして吸う。冷静さを装いながら、リーゼとそして黙ったままの殿下に向かって言葉を紡いだ。
「すみませんが、事情の説明をお願いできますか?」
リーゼの視線が殿下へ向かう。その眼差しは「言え」という圧力を、言葉よりも雄弁に伝えていた。しかし殿下はその視線を真っ向から受け取りながらも、微動だにしない。
リーゼと殿下は気の知れた仲なのだろう。彼女の言動を見ていれば、それだけは確かに分かる。それでも、あのような視線を向けられれば殿下も気分を害するのではないか——そんな心配を覚えた。
しかしそんな心配を他所に、リーゼはずいずいと殿下に迫り、腕を組み仁王立ちしながらさらに目を細める。
「説明を、お願い致しますわ」
それを受けても微動だにしない殿下。そんな殿下に対し変わらず鋭い目を向けるリーゼに、私はかつて自分も似たような態度を殿下に取っていたことを棚に上げながら彼女を心配そうに見守った。
殿下をまっすぐに見るリーゼの瞳には、責めるような感情と思いやる感情、二つがはっきりと同居しているように見える。
「王族、いやリュシア様の元婚約者としての責務を果たしてくださいまし。リュシア様にも、そしてあなた自身にも、それが必要ですわ」
その声音には怒りが込められていた。けれど同時に、殿下を気遣うような柔らかな優しさも、確かに含まれていた。きっと、リーゼと殿下の間には私の想像も及ばないような時間があるのだろう。その声音を聞きながら、ふとそう思う。私とロルフとユリウス伯、グラナート領での日々のような——あの温かい記憶のような時間が。
ふと殿下の顔に目を向けると彼はどこか罪に苦しむ罪人のような、あるいは悪と知りながらも貫き通す者のような、罪悪感と覚悟の狭間で揺れる複雑な表情を浮かべていた。
初めて見るその表情に、私は思わず目を見開く。
彼が何を考えているか、ずっと分からなかった。どんな感情を抱いているかも。ただ、それはもしかすると——私がずっと向き合ってこなかったからかもしれない。
彼が何故私を遠ざけていたのか、何故今日助けてくれたのか、きっと簡単には語れない事情があるのだろう。もしも王都にいた頃の私が、事情も顧みずに殿下へ迫っていたなら、今とは違う結果になっていたかもしれない。彼の好きなもの、嫌いなもの、得意なこと、苦手なこと——そういうことを知りたいと思っていれば、今とは違う関係性になれていたかもしれない。
けれど、もしそうであったとしても、今の道が間違っていたとも思わない。だってロルフに出会えた。たくさんの人と出会えた。グラナート領を知れた。それだけで、これまでの道のり全てが肯定されたような気がするから。
それからさらにしばらく時間が流れた後、殿下はぼそりと呟いた。
「……俺は、君にとって敵であった方がいい」
零れるような本音。その意図がさっぱり分からないからこそ、聞かなければならない。王都を追放された理由、裁判を中断させた理由、全てを殿下自身の口から聞かなければ。
私はずいずいと歩き、殿下の背後に立って出口を塞いだ。
「話してください。それまで、絶対に逃がしません」
さらにしばらくの時が経つ。時計の針、外を通り過ぎる風の音、静けさの中に環境音だけがやけに大きく響く。私が折れることはないと観念したのか、殿下はやがて諦めたように口を開いた。
「長丁場になる。紅茶でも飲みながら話そう」
♢
場所はダイニングへと移った。
晩餐会が余裕で開けそうな広い空間に、絵画や陶器が絢爛と飾られている。グラナート領とは比べ物にならないな、と内心で思いながら部屋を見回す。整えられた机の上には人数分の紅茶と茶菓子。先ほどリーゼが手際よく用意してくれたものだ。
「ごほん」
殿下が小さく咳払いをして、話し始めた。
「今、この国には大きく分けて二つの勢力がある。王家と、財務長官を筆頭としたアルダープ家だ」
その名を耳にした瞬間、胸の奥で何かが冷えた。アルダープ家、もといリチャード財務長官。今や王家の次に影響力を持つとされる人物であり、私の相手にしている敵でもある。改めてその強大さを認識し、思わず息を呑んだ。
「だがかつて均衡を保っていた両者は、近年崩れつつある」
きっと王家が優勢になったわけではない。むしろその逆——リチャード財務長官の側が勢力を広げてきたのだろう。私は何も言わず、続きを待つ。
「今や奴は国家の財政から司法まで好き勝手に弄りまわしている。補助金等は今やあいつの単なる小遣いでしかない。それに、奴は王都だけじゃなく、他の領までも干渉しているようだ」
ギリウスが持ってきてくれた資料が、頭の中に浮かぶ。各領の帳簿。そこには、グラナート領と同じように補助金がそのまま王都の商会へ流れている、紛れもない軌跡があった。しかしそれだけではない。支出の増加具合も、税収の一定化も、どの領も同じ時期から同じような推移を遂げていた。これはつまりグラナート領だけでなく様々な領で粉飾が起こっており、その全ての裏には財務長官がいたということだ。
「だから、君を派遣した。財務長官の不正に気づいてくれると、そして奴の汚職を押しのけ健全な領に戻してくれると——そう確信していたから。財務長官は自分が追放したものだと思っていたようだが」
急に話を向けられ、私は困惑した。
なぜ、私なのだろうか。私より優秀な人材はたくさんいたはず。それに、殿下がそれほど私を過大評価していたことにも驚く。ずっと避けられていたから、視界にすら入っていないのだと思っていたのに。
「なぜ、私なのですか?」
私が困惑しながら尋ねると、殿下はひどく言いづらそうに目を伏せた。そんな様子を見かねて、リーゼがどすっと肘打ちを入れる。響く鈍い音に、殿下は痛みをこらえながらも、苦しそうな表情で口を開いた。
「身勝手な話だと思うが……君の才能には、割と早い段階で気づいていたんだ。計算も、工夫も、他の令嬢や文官と比べても見劣りしないどころか、何倍も優れていた」
嫌われていると思っていた殿下に褒められている。その奇妙な状況に、喜びよりも先に困惑が来た。あの無表情の裏には感嘆が含まれていたというのだろうか。ならば何故それを顔に出してくれなかったのか。何故、言葉にしてくれなかったのか。
なぜ——
治りかけのかさぶたが剥がれるように、かつての恨み節が視線ににじんで出てしまう。その視線を殿下はまっすぐ受け止めながら、話を続けた。
「ただ、財務長官の不正にも君は気づいてしまった」
そうだ。王都の帳簿の数字がおかしいと気づき、殿下に訴えたことがあった。あの時の殿下も今と同じように、複雑な表情をしていたような気がする。
「君の優秀さを受け入れ政務を任せていたら、あっという間に財務長官との衝突になる。それは避けたかったんだ。少なくとも、当時は」
項垂れるように呟く殿下。私は黙って聞きながら、頭の中で情報を整理していく。
つまり殿下は、私を財務長官の目から隠していた? 確かに当時の私は、帳簿上で間違っていることがあれば誰かれ構わず噛み付いていた。もし政務を本格的に手伝うことになっていたら、財務長官にも容赦なく歯向かっていっただろう。その先のことは、あまり想像したくない。
……ともかく、殿下は私を守ってくれていた。あえて無視することで、財務長官の目がこちらに向かないようにしていた。
そう理解しても、素直にお礼は言えない。すっかり慣れてしまったとはいえ、当時はそれなりに傷ついたのだ。傷が癒えたとしても、傷を負った記憶は残る。それは仕方のないこと。
私の複雑な表情を見てか、殿下は申し訳なさそうな顔で続ける。
「あれから、他の貴族への根回しから父上の説得まで、準備を着々と進めてきた。後は奴の不正の決定的な証拠を見つければ追放できる。やっと、そこまできた」
殿下は席から立ち上がり私の前まで来ると、深く頭を下げた。
「今回の逮捕は財務長官が他の領の健全化を恐れてのこと。直接的な原因は奴でも、間接的な原因は俺にある。それに、これまで君に酷い態度で接してしまった。本当に申し訳なかった」
国のトップになろうとしているお方が、一令嬢に頭を下げている。その事実がじわじわと胸に伝わってきて、私は慌てて「おやめください」と立ち上がった。それでも、殿下は顔を上げない。
「許してくれとは言わない。むしろ、一生恨んでくれて構わない。それだけのことを、君にはしてしまった」
震える声に、長年抱えてきたのであろう痛みと苦しみが滲んでいた。
頭を下げる青年を前にして、私はただ困惑していた。許すとか許さないとか、謝罪を受け入れるとか受け入れないとか、そういうことが頭に浮かぶより前にとにかく整理がつかない。
殿下が追放を命じたのは辺境の財政を健常化したいからで、私がグラナート領を超えて口を出したから財務長官の怒りを買って——そして殿下がこれまで素っ気なくしていたのは、財務長官の目がこちらに向かないようにするためで、そしてあと少しで財務長官を追放できるところまできていて……
一気に情報が入ってきて、頭が追いつかない。自分の感情をどこに置けばいいのか、うまく分からない。ただ一つ確かなことは、元凶は財務長官であるということだ。殿下も私も、みんなあの男の掌の上で踊らされていた。
項垂れたままの殿下が、声を振り絞るように続ける。
「舞台は整えた。後は証拠を揃えるだけで、奴を追放できるんだ。だから、後少しだけ……」
迷うような表情を浮かべ、少し押し黙る。そして一呼吸置いてから、殿下は再度口を開いた。
「その資格がないことは分かっている。でもその上で——もう少しだけ、協力してもらえないだろうか」
迷い、苦しみ、それでも選んだ者特有の覚悟が、言葉の端々から伝わってきた。
彼がどんな苦しみを負ってきたのか、どんな努力を重ねてきたのか、それを私は知らない。けれど彼が今こうして立っているのは、きっとこの国のため。王族としての矜持ゆえだ。
ああ、この人は私と同じだ——と、不意に思う。大切なもののために、ただひたすらに頑張ってきた人だ。なら、答えは決まっている。
あの領に戻るために。ロルフに会うために。もう少し、頑張ろう。頑張ってみせる。
「私にも協力させてください」
手を差し出す。僅かな間を置いて、殿下はそれをおずおずと握り返した。
「助かる」
その一言で、ずっと胸の奥に張り付いていた何かが、すっと溶けていった気がした。
リーゼが「よかった」と小さく息を吐くのが聞こえる。私は殿下から視線を外し、紅茶のカップを持ち上げた。すっかり冷めてしまっているが、一口含むと、苦みの中にほのかな甘みが残っていた。
これがきっと最後の戦いになる。胸の内で静かに、しかし確かに私は決意を固めた。
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