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29話 戻ってみせる

 窓の外の景色が移り変わり、馬車の車輪が土から石畳を叩く。数々の街、村、山を通り過ぎてきた旅路の終わりに、王都の重苦しい空気がじわりと車内へ染みこんでくるのを感じた。豪華絢爛な衣装を身に纏う貴族、数えきれないほどの部下を連れ練り歩く大商人、全身から選ばれた存在であると主張するような人々が、何事かという目で馬車を見ている。

 しかしリュシアはそんな視線にさらされてもなお、手を止めることはなかった。朝も夜もひたすらに書き続け、紙はいつしか小山を作っている。


 これでグラナート領、十五年分の帳簿の内容は書き起こせた。

 散乱した紙たち。そこには支出の不自然な増え方も、補助金の不透明さも、そして何より王都とグラナート領との備蓄の差分という明らかな違和感が、ずっと前から蔓延っていた事実として浮かび上がっていた。

 でも、きっとまだ足りない。相手は財務長官だ。人一人を簡単に逮捕できるほどの人物。もっと直接的な証拠になるような数字を集めなければ。それも、誰もが一目見ただけで矛盾点を見つけられるような、そんな証拠を。

 徴税官の貯蓄の推移? 本来の税額と帳簿の差分? いや、もっと直接的な――眉間に皺を寄せ悩んでいると、馬車が大きく揺れ、体が投げ出された。


「わっ」


 役人に受け止められ事なきを得るも、何事かと辺りを見回す。馬車が止まった反動で体が飛んだらしい。少しの時間が空き、扉が開かれた。すると役人たちはリュシアを無造作に外へと放り出す。


「……っ!」


 少し躓きつつも何とか地面に降り立ち、大きく息を吸う。香水の入り混じった空気、どんよりと淀んだ空、人を見下すような目。嫌でも、王都に戻ってきたのだと実感させられる。

 追い出された街に帰ってきた。しかし郷愁も何も感じない。むしろ、嫌悪感が募るばかりだ。

 かつての居場所だった都市。だけど今の自分がいたい場所はここじゃない。澄んだ空の下、活気あふれる市場、笑顔溢れる領民、そしてそんな彼らを生暖かい目で見守るロルフやユリウス伯。自分がいたい場所はそんなグラナート領だ。


 そんなことを思っていると、仏頂面の役人たちが旅の中ひたすら書き連ねた紙束を無造作に放り投げた。紙は石畳の上にばらばらと散らばる。「ざまあみろ」と言わんばかりに鼻を鳴らし、役人たちは馬車を駆け去っていった。


 私は溜息を吐きながら紙を集める。この程度の嫌がらせなら何度も受けてきた。だから今更こんなことで感情は動かない。それよりも考えるべきは、どうやったら自分の無実を晴らせるような証拠になり得るかだ。

 今掛けられているのは、グラナート領の帳簿の粉飾容疑。帳簿の内容を十五年分は用意できた。支出の増加具合や税収の一定化、それらが顕著になり始めたのが十年前であり、それが何よりの粉飾の証拠だった。

 他には何があるだろうか。周辺の領との税収比較、徴税官の貯蓄額の推移……そう、その方向だ。徴税官に関わる何か。

 ――裏帳簿。そうだ、裏帳簿の数字を全て書き写して、伯に見せたように帳簿との差分を説明すればきっと分かってもらえるはずだ。粉飾の犯人が自分ではないと。


 そう思考を完結させたリュシアは、傍らにあった紙に無我夢中でペンを走らせた。通り過ぎる人々の冷ややかな視線に目も暮れず数字を並べていく。

 しばらくして、上から声が降ってきた。


「何をやっているのですか」


 思わず顔を上げると、そこには刑務官らしき男が呆れた表情で立っていた。三十代前半、いや後半だろうか。苦労皺を刻んだ顔に、茶髪の髪はいくつか白髪が混じっている。名札にはギリウスと書かれていた。

 辺りを見回すと、男の背後には留置場らしき建物が建っている。どうやら自分は留置場の前で捨てられたらしい。


「すみません、少し躍起になってしまって」


 そう言うと、男は複雑そうな表情をしながら辺りに散らばった紙を拾い集めた。とんとんと整えると、そのまま差し出してくる。


「ありがとうございます」


「礼なんて要らないですよ。俺は刑務官で、あなたは容疑者なんですから」


 男はそう言うと、リュシアを連れ建物の中へ入っていった。


 木造の建物に入ると、同じ刑務官らしき人間が酒を片手に談笑していた。机の上に書類はなく、ゲーム盤らしきものが乗っている。何やら賭けでもしているらしい。

 私は小さく息を吐く。やはり、王都(ここ)は変わらない。ここに住む多くの人間が立場や身分を笠に掛け、怠惰と豪遊の限りを尽くす。このままではこの国は腐り落ちてしまう。そう何度も殿下に声を上げたが微塵も聞き入れてもらえず、対策となる仕組みを考えても結果は同じ。ここでは、自分は無力だった。

 だが、今は違う。自分にもできることがある。そう改めて誓いを胸に刻んでいると、ふと前を歩くギリウスの顔が目に入った。遊興に耽る同僚たちを複雑そうな表情で睨んでいる横顔が、通路の薄暗い灯りに照らされている。


 それから階段をいくつか下り、ベッドと机だけが置かれた簡素な部屋に通される。大人が三人も入れば空間を使い切ってしまいそうなほど狭い。広さを除けば普通の部屋と変わらないようにも見えるが、一カ所だけ決定的に異なる箇所があった。小さな窓に、鉄格子に覆われていたのだ。


「しばらく、ここにいてください。くれぐれも逃げようなんて思わないでくださいね」


 男の言葉と、鉄格子。その事実がじわじわと心を蝕んでいく。本当に、容疑者になってしまった。簡素な部屋と鉄格子の窓。これではまるで、犯罪者のようだ。冤罪であり、容疑者扱いされるいわれはない。そう分かってはいても、この景色を見ていると少し気が滅入ってしまう。


 私は気分を切り替えるように、手で頬を叩いた。今やるべきことは落ち込むことじゃない。そう決意を新たにし、またペンを片手に書面と向き合う。


 それからいくつかの日を経ても、ペンは離れなかった。一心不乱に、裏帳簿の数字を書き写していく。大切な想いを胸に、動き続ける。もう少し、もう少しで書き終わる。そんな時、ふと視界が揺れた。あれ、何かおかしい。そう感じた直後、意識が闇に落ちた。



 ♢



 微睡みの中で、誰かの声がする。聞き慣れたはずなのに、もう聞くことができない声。目を開けると、ロルフの顔がこちらを覗き込んでくる。心配そうな、しかしそれを出すまいと必死に強張らせている表情。頭の下には柔らかな感触が広がっており、膝枕されているのだと分かる。

 春の陽気に照らされ、心が軽くなる。きっと、これは夢だ。だけど今だけは、この微睡みに溺れてもいいんじゃないだろうか。そんな思いを胸に、夢の中の私は静かに瞼を閉じた。



 ♢



 朝の光に照らされ、目を覚ます。目の前には散乱した紙と冷たい机。体中が悲鳴を上げていた。その痛みを無視しつつ辺りを見回すと、真っ先に鉄格子の付いた窓が視界に入ってきた。


 ああ、これが現実だ。でも、それがどうしたというのだ。こんな鉄格子も、鉛のような疲労も、諦める理由にはならない。再び数字を書こうとペンに手を伸ばすと、何か掛けられていたものがするりと滑り落ちた。どうやら毛布のようだった。誰かが掛けてくれたのだろうか。

 辺りを見回すと、ギリウスが何かを読んでいた。本ではなく紙、自分が書いたものだ。

 思わずごくりと唾を飲む。無実を証明しようとしているのが、ばれてしまっただろうか。いや、今更だ。役人の前でもひたすらに数字を書いていたのだから。それに、もし彼が私を止めたいなら紙を全て捨てればいいし、そもそも初日に止めていただろう。きっと毛布を掛けてくれたのも彼だ。そんな人が敵だとは思いたくない。だが……


 固唾を飲み見守る私に、ギリウスは静かに問い掛けた。


「なぜ、そこまでして無実を証明しようとしているのですか?」


 真剣な瞳で見つめてくる。その声音には責める風も怒りも含まれていなかった。純粋に知りたいのだろうと感じ、素直に思いの丈を語る。


「戻りたい場所が、あるからです」


 なおも彼は視線を逸らさない。その表情は覚悟を問うているように思えた。相手は財務長官であり、王家と同義の権力を持つ実力者だ。そんな相手を前にして、まだ戦うのかと。


「相手が誰でも関係ありません。私は絶対にあの領へ、グラナート領へ戻ってみせます」


 怖いかと問われれば怖い。相手は今までにないほど強大で、この国の深くに根を張る財務府のトップ。こんな小娘の命など、息をするより自然に刈り取ってしまうだろう。だけど、もう逃げないと決めた。あの領での日々を、ロルフとの日々を諦めないと、そう決めた。


 私は覚悟を込めた瞳で見つめ返す。二人の瞳が交差するが、そこにあるのは穏やかな空気などではなく、むしろひりついた緊張感だった。

 しばらくにらみ合った後、ギリウスが小さく息を吐き部屋を後にした。


 ちゃんと想いは伝わっただろうか。それとも呆れられてしまっただろうか。それにしても、なぜあんなことを聞いてきたのだろう。あんな試すような眼差しで。彼は何を考えてあんなことを……

 いや、そんなことを考えても答えは出ない。今はそれよりも……ギリウスについての思考を頭を振って隅に追いやると、私は再度紙に向き合った。


 それからまたしばらく、数字を書き込んでいく。十三年目、十四年目、十五年目……午後の光が部屋の小さな窓から差し込まれる頃、私は静かにペンを置いた。

 これで、裏帳簿は終わり。この数字を帳簿と突き合わせればきっと……


 ふと扉が開き、先ほどの刑務官が入ってくる。手には昼食と、何冊かの本。彼は柔らかく微笑みながら、それらを差し出してきた。


「それらは王都での各領の帳簿内容と、各商会の財務諸表です」


 笑顔の裏に、少し疲労を携えたような顔で彼は続ける。


「裁判官も、さすがに王都に保管されていた本ならば信用せざるを得ないでしょう。これらとあなたの紙束を照合すれば、検察が捏造した証拠品よりよっぽど信憑性の高いものが作れると思いますよ」


 生暖かい瞳でこちらを見ながらそう言う。きっと一生懸命この資料を探してくれたのだろう。ギリウスの疲れた顔を見ながら、私ははそう思った。


「ありがとうございます。とても、とても助かります。でも、どうしてそこまで……」


 これは財務長官の敵に協力したともいえる行為だ。それならば、彼自身にも危害が及ぶかもしれない。それほどの危険を冒してまで、なぜ。

 彼は少し後ろめたい顔をしながら口を開く。


「無実の人間を、ここに連行したのはあなたが初めてではないんです」


 罪を懺悔するように、彼は続ける。


「財務長官であるリチャード様の不都合を暴こうとする人間を、俺は何人もこの部屋に入れました。彼らが無実を訴えるたびに、胸が締め付けられました。この街を、この国を守ろうと誓った人間が、守るべき民を拘束して断罪しようとしている。その事実に耐えられなかったのです。身勝手な話ですけどね」


 自嘲気味な笑みを浮かべる男。そんな彼を前に、責める気にはなれなかった。誰だって、自分の身が一番大切だ。それに、歯向かうのはこの国で最も権威ある男。誰だって、逆らいたくはない。


「仕方がない、と思います」


「そう、かもしれません。でも、彼らは牢獄に囚われた後謎の死を遂げてしまうのです。一人の例外もなく。私はそれを分かっていた。分かっていながら、何もしなかったのです。……正直、何度も命を絶ってしまおうかと思いました」


 きっと、犯人は財務長官だろう。私もいちかそうなってしまうかもしれないと思うと、恐怖に震える。でも、それでも諦めないと、絶対に戻ってみせるとそう決めた。だから、絶対に逃げない。


「でも、そんな罪悪感を抱えながら仕事をしていくうちに、なんだか慣れてしまっている自分もいたのです。無実の人間に、罪を上書きする作業に慣れてしまっている自分に」


 一呼吸置き、男は続けた。


「だから、慣れきってしまう前に自分がやりたかったことをやろうと思ったのです。刑務官として、この国の人間として正しいことを」


 男は弱々しい笑顔を携えながらも、確かな覚悟を秘めた目でそう言い切った。

 正しいと思ったことをやる。それが出来る人間が、この国にどれほどいるだろう。きっとできない方が大多数であり、それもまた正しいのかもしれない。だけどこの人は、それを無視して声を上げた。自分の正しさを貫いた。それはまさしく勇気と呼ぶべき代物だ。

 私は彼に敬意を払おうと深く頭を下げ、感謝を示した。


「本当に、ありがとうございます。あなたがしてくださったことを、あなたの正義を、私は一生忘れません」


 私の発言に、彼は面食らったようだった。確かに少し大仰だったかもしれない。けれど、本心だ。恥じるべきことは、彼にも私にもないはず。


 彼はその言葉を咀嚼するようにしばらく佇んでいた。そして、しゃがれた笑顔を見せる。その表情はまるで懺悔を終えた罪人のような、しがらみが取れたような顔をしていた。


 それから数日が経ち、手元の資料の照合はほぼ終わろうとしていた。

 夜半を過ぎても、ペンは止まらない。灯りが揺れるたびに紙の上の数字がぼんやりと霞むが、それでも手を動かし続けた。


 ギリウスが運んできたくれた帳簿の束は、思った以上に豊富な情報を含んでいた。各領の税収推移、王都に登録された商会の決算書、補助金の配分記録。これらを自分の紙束と照合していくと、パズルの欠けたピースが次々と埋まっていく感覚がある。グラナート領だけが突出して不自然な消費をしているのではない。財務長官リチャードが関わった領の全てに、同じ歪みが走っていた。

 補助金が振り込まれるタイミング。御用商会への大口支払い。そして帳簿上の備蓄量と実態の乖離。同じ手口が、複数の領に渡って繰り返されている。これは一時の不正ではなく、組織的かつ長期的に仕組まれた収奪だ。


 私はペンを止め、書き終えた一枚を灯りに透かして眺めた。

 数字は嘘をつかない。人が嘘をつくのだ。そしてその嘘は必ず、どこかに歪みを残す。その歪みを丁寧に拾い集めれば、やがて真実の輪郭が浮かび上がってくる。この数枚の紙にはもう、財務長官の犯罪の骨格が記されていた。

 もっとも、これだけでは裁判を動かすには不十分かもしれない。向こうには証拠を握りつぶす権限がある。それでも、と思う。数字の矛盾は、どれだけ権威をかざされても消えないものだ。


 灯りが揺れる。ペンが動く。数字が積み上がる。

 この部屋の外には広い世界があって、その世界の片隅に、グラナート領はある。澄んだ空の下に広がる市場の声、土と緑の匂い、ロルフの不器用な優しさ、ユリウス伯の穏やかな背中。それらを取り戻すために、ペンを握る。

 今すぐロルフの声が聞きたい。そう思うと、胸が締め付けられるような痛みが走る。でも今は泣いている場合じゃない。泣くのは、帰ってからでいい。

 紙の上で、数字が列をなしていく。その一つ一つが、私にとってたった一つの帰り道だった。



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