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28話 立ち上がる理由

 馬車の中に、沈黙が満ちていた。

 三人の役人たちは互いに視線を交わすこともなく、それぞれ膝の上に手を置いたまま、ただ前を向いている。無言を貫いているのは礼儀からではないだろう。あの広間でのロルフの気迫が、まだ彼らの喉に刺さっているのだ。


 私にはわかる。あの瞳の奥に宿っていたのは、単純な怒りではなかった。財務長官への憤り、歪んだ司法への絶望、そして私への——言葉にしきれない何か。それらが渦を巻いて、ああいう形で溢れ出した。

 もしロルフのことを知らなければ、私もあの場で竦んでいたかもしれない。剣を握ったことのないこの手が、思わず震えるような迫力だった。でも私は知っている。彼が差し伸べてくれた手の温かさを、不器用な優しさを、夜の星空の下で聞かせてくれた声を。だから、あの剣幕の向こう側に何があるかも、ちゃんとわかっていた。


 窓の外を見ると、空は雲一つない晴天だった。呆れるほど穏やかな青が、どこまでも続いている。こんな日に限って、空はいつも通りだ。世界が何も変わっていないように見えて、少しだけ腹が立った。


 馬車が石畳の上を滑っていくうちに、私の思考はじわじわと暗い方へ傾いていく。


 ロルフを、巻き込んでしまった。私と出会わなければ、彼はあんなふうに感情を乱すこともなかったはずだ。次期領主として冷静に判断し、もっと賢い道を選べたに違いない。それなのに彼は役人の胸ぐらを掴み、財務長官を真正面から敵に回した。その原因を作ったのは、他でもない私だ。

 嫌なわけじゃない。嫌なわけが、あるはずもない。ロルフが私のために怒ってくれたという事実は、胸の奥に温かく残っている。でも——と、思考がぐるりと回る。あの熱が私への想いから来ているとするなら、私がいなければ彼はもっと自由だったのではないか。笑顔で溢れる領にしたいという夢を、もっと真っ直ぐ追えたのではないか。傲慢な思いだと分かっている。しかし、どうしても思考を止めることができなかった。


 馬車の窓には次々と景色が映っては消える。小さな町の屋根、風に揺れる森、光を跳ね返す池。私はそれをぼんやりと眺めながら、自己嫌悪をこねくり回していた。


 このまま諦めてしまえばいいだろうか。罪を認めてしまえば、ロルフは矛を収めるかもしれない。グラナート領も、これ以上王都との対立を深めずに済む。そう考えると、どこか楽になれるような気がして——


 ふと、足元で、かすかな音がした。

 視線を落とすと、何かが床の上で揺れている。拾い上げると、それはいつかロルフがくれたアイビーのペンダントだった。衝撃で外れてしまっていたのか、丸い葉の意匠が馬車の振動に合わせて、手のひらの中で小さく揺れる。


 私はそれを両手で包むように持つ。すると、不思議なことが起きた。さっきまで喉に詰まっていた息苦しさが、すうっと薄れていく。代わりに、温かいものが胸のどこかから広がり始めた。

 頭の中で映像が次々と映し出された。不正を追って走り回った市場の石畳、バザーで彼が不器用にペンダントを渡してきたあの瞬間、二人きりで踊ったワルツの夜——手を引かれて、初めて音楽の中に溶けていけた気がした。星空の下で吐き出した本音、山頂で伝え合った気持ち。一つ一つが、今この手のひらの中にあるような気がする。

 ——でも、諦めたのなら。思い出がこれ以上増えることはない。ロルフと並んで歩く街角も、二人で見る夕陽も、他愛ない話をしながら飲む朝の牛乳も——全部が、セピア色の写真になる。

 仕方ない、という言葉が胸の中で呟かれた。相手は徴税官などではない。財務長官、そして王都そのものだ。権力も地位も家柄も、持っているものが違いすぎる。だから——


 気づかないうちに、涙が一筋こぼれ落ちていた。

 まずいと思って顔を覆っても、止まらなかった。一粒、また一粒と頬を伝い、やがて嗚咽まで漏れ始める。役人たちの視線など、もう気にしていられなかった。ずっと蓋をしていたものが、ペンダントに触れた瞬間に決壊してしまったらしい。

 離れたくない。ずっと一緒にいたい。もっと色んなものを見て、色んな話をして、ロルフの隣でこの領が変わっていくところを見届けたい。


「……わわあああん」


 声が漏れた。思いが零れた。我ながら、子どもみたいな泣き声だなと思う。それでも止まらなかった。時間も忘れて、ただひたすらに泣いてしまった。馬車が揺れるたびに視界が滲んで、役人たちが所在なさげに咳払いをする音も遠い話のように聞こえる。


 嫌だ。嫌だ、嫌だ!

 やっぱり諦めたくない。やっと見つけた、宝物みたいな時間。絶対に、手放したくない。

 どれほど泣いただろう。一時間?二時間?いや、案外数分も経っていないかもしれない。そうして涙が落ち着いてきた頃、私はペンダントを首に付け直した。冷たいはずの金属が、どこか温かく感じる。


 そして、私は静かに紙を取り出した。

 グラナート領の帳簿を、思い出せるだけ思い出す。税収の項目、年度ごとの支出の傾向、補助金の入出金のタイミング、王都の御用商会との取引額。細部まで正確に。数字が頭に入っているのは、何度も何度も照合してきたからだ。


 数字があれば、戦える。この手にあるのは剣でも権力でもないけれど、帳簿という武器なら使いこなせる。財務長官がどれだけ権威を纏っていても、数字の矛盾は誤魔化せない。嘘をつくのは人間であって、計算式は嘘をつかない。


 馬車が揺れる。それでもペンは紙の上を走っている。朝が来て夜になって、また朝が来ても、私はペンを置かなかった。役人たちが思わず引いてしまうほど、ひたすらに書き続けた。窓の外の景色が移り変わっても、目の前の紙だけを見ていた。


 たとえ相手が官僚でも、国家でも。もう、諦めない。戦って、突きつけてやる。この数字を、この真実を、必ず。そして絶対に取り戻してみせる。ロルフと、伯と、大切な人達との日々を。グラナート領での日常を。

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