26話 幸福
屋敷に着くと、玄関の灯りの下でユリウス伯が待ち構えていた。
「おかえりなさい、二人とも」
温かみのある声が、夕闇に溶ける。
「「ただいま戻りました」」
二人の声が、図らずも重なった。伯は目を細め、ゆっくりと笑む。
頂上から下る道中も、麓から屋敷へ続く石畳の上でも、二人の間には言葉の少ない時間が流れていた。それでも息苦しくはなかった。ただ、どこか甘酸っぱいような空気が二人をくるんでいる——その感触を、伯はきっと一目で読んだのだろう。
「......祝いの席を設けなければな」
さらりと言った伯の声に、私はどこを向いていいか分からなくなって俯いてしまう。隣でロルフも僅かに肩が強張るのが気配で伝わった。伯はそれが可笑しいのか何も言わずにくつくつと喉を鳴らしながら、先に進んでいった。
夕食後、私は食後の茶を飲みながら今日のことを振り返る。
レイトとロルフの言う通り、山の頂上からの景色は息を呑む程の絶景だった。手を伸ばせば届いてしまうのではないかと思える程の近い青空に、どこまでも広がっている村々と緑溢れる自然。私が今まで見た物の中で、最も雄大で壮大な光景だった。
そして、ロルフの告白。彼の真剣の眼差しと愛してるの言葉。それらを思い出す度に頬が緩み、胸が温かくなる。好きな人と心が通じ合っていた。そのことが、この世界で何より大切なことのように思えてくる。その事実さえあれば、他には何も要らないと感じてしまう程に。
そんなことを考えていると、居間の扉が開きロルフが改まった顔で前に立った。飲んでいた紅茶を何とか飲みこみ、表情筋を保ちながら私は顔を彼に向ける。そんな私をよそに、ロルフは珍しく躊躇うような間を置いてから口を開いた。
「指輪は、少し待っていてくれ。近い内に必ず用意する」
申し訳なさそうに、それでいてきちんと約束として伝えようとするように、ロルフは言う。
私は湯気の立つカップを両手で包んだまま、少し目を丸くする。それから、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「はい。楽しみにしています」
私の言葉を受け、何やら深刻そうな顔になるロルフ。
指輪の金額ででも悩んでいるのだろうか。確かに王都では自分の財を見せつけようと、金やダイヤを装飾した指輪を誰もが贈っていた。だけど、大切なのは金額でも装飾でもない。そこに籠っている気持ちだ。それさえ込めらているならば、どんなに質素な指輪でもきっと一生の宝物になる。そう考えた私は、金額など掛けずとも気持ちは伝わっている旨をロルフに伝えようと口を開く。
「あまり豪華なものにしなくても大丈夫ですよ。ロルフの気持ちはちゃんと伝わっていますから」
そう言うと、ロルフは小さく溜息をついた。それから、ゆっくりと手が持ち上がり、私の頭の上にそっと掌底が乗せられる。
「こういう時は、遠慮をしないのがマナーだ」
諭すような声だった。
本心からの言葉であったが、そう言われては返す言葉がない。私はロルフの好意を黙って受け取ることにした。
それからの日々は、穏やかに過ぎていった。
朝の食卓でスープを啜り、執務室で書類と向き合い、夕刻に廊下でばったり行き合っては他愛ない言葉を交わす。いつも通りの日常。なのに、少しだけ違って見える。
ロルフが隣を歩く時の距離、書類を渡す時に指先がふれる瞬間、窓の外に目をやった彼の横顔——そういったごく些細なことが、以前より鮮やかに胸に落ちてくる。
幸福というのはきっと、こういう日々のことを指すのだろう。
とある夜。ユリウス伯に呼ばれてダイニングへ向かう。そして扉を開いた瞬間、目の前の光景に足が止まった。室内には色とりどりの花飾りが下がり、テーブルの上には肉料理から魚料理まで所狭しと並んでいる。蝋燭の灯りがそれらを柔らかく照らし、まるで小さな晩餐会のようだった。
呆気に取られる二人へ、使用人たちが次々に「おめでとうございます」と声をかけてくる。ハインリヒが続き、レイトが続き——そして最後にユリウス伯が、二人の前に立った。皺の深い顔を、ゆっくりとほどきながら。
「おめでとう、二人とも」
声音は穏やかだが、その奥に確固たるものが宿っていた。伯はしばらく二人の顔を等しく見比べてから、静かに口を続ける。
「実は、リュシア殿とロルフ。お前達が家を継いでくれたらと、ずっと思っていたんだ」
どこか誇らしげな、しかし照れを隠すような間を置き伯は続ける。
「自分ではない誰かのために行動できる者は貴重だ。お前達なら、この領を任せられる」
伯の手が、私とロルフの肩へそれぞれ乗せられる。重みが、じんと肩を通して胸まで伝わってくる。
「頼んだぞ」
誰かに認められたくて頑張ってきたわけじゃない。ただやらなければないないことを、目の前のことを一つずつやってきただけだ。それでも、尊敬できる人にこうして言葉をかけてもらえることが——ただ、たまらなく嬉しかった。頑張ってきてよかった、と心から思えた。
「「……はい!」」
思わず声が震える。きっとロルフも。
伯はもう一度目を細めると、促すように食卓へ手を向ける。
それからはマナーも気にせず、好きな料理を手に取って、大切な人たちと笑い、話した。改めてこの領に来られてよかったと思いながら、過ぎゆく時間を身体に刻みこんでいく。
♢
宴が落ち着いた頃、お酒で上気した肌を冷ましたくて、私は一人庭へ出た。
夜風が頬を撫でる。山の風とは違う、屋敷の庭の静かな夜気。生垣の向こうで木の葉が揺れ、石畳の上に月の光が差し込んでいる。
噴水の縁にロルフが腰かけているのが見えた。その隣へ向かい、腰を下ろす。すると、ロルフがこちらへ顔を向けた。彼もアルコールが回っているのか、頬にうっすらと赤みがある。
しばらくの沈黙の後、ロルフが気まずそうに口を開く。
「……何か付いてるか」
どうやら、ロルフの顔をじっと眺めていたらしい。私は慌てて視線を逸らし、誤魔化すように空を仰いだ。
満天の星が広がっている。山頂から見た景色とはまた違う、夜の空の深さ。じんわりと胸が満ちていく。
「少し前にも、こうして星を見たことがあったな」
「ええ、ありましたね」
恋心を自覚したのは、あの夜だった。でも、と思う。きっとその前から、私はこの人に惹かれていたのだ。隣に立って、一緒に戦ってくれた時から——きっと。
「舞踏会の練習をしたり」
「ありましたね。ロルフに苦手なことがあるなんて、思いませんでした」
揶揄うように笑うと、ロルフはむっとした顔になる。
「リュシアこそ。舞踏会が苦手だとは思わなかった。王都で名だたる貴族たちに、臆することなく挨拶を交わしていたと思っていたからな」
今度は私がむっとする番だった。睨み合うような一瞬の後、二人とも堪えられなくなって同時に噴き出した。笑い声が夜の庭に広がり、やがて静かに収まっていく。
「劇を見たり、林檎飴を食べたり、不正を暴いたこともあったな」
「ありましたね」
この一年間、色々なことがあった。決して楽しいことばかりではなかった。それでも領の温かさに触れて、大切な人たちができて、そしてロルフに出会えた。
もし今の記憶を持ったまま過去に戻れたなら、今度は自分から婚約破棄をしてグラナート領へ来るだろう。この領が、ロルフの隣が、今の私の居場所だ。これからもそうであり続けたい。
「きっとこれからも色んなことが起きるだろう」
「そうですね」
「飢饉も不正も、勘弁してほしいがな」
「そうですね」
笑いながら答えると、ロルフがこちらを見た。
「それでも、リュシアが一緒なら全て乗り越えられる」
「私も、そう思います」
視線が絡む。世界が静まり返り、時間が二人のためだけに流れているような感覚。距離が、じりじりと縮まっていく。ロルフの紫紺の瞳が、間近に映っていた。もう少し、もう少しで唇が触れる——その瞬間、車輪の音が屋敷の静寂を砕いた。
思わず音のした方を振り返ると、大門の前に豪勢な馬車が停まるところだった。御者が跳び降り、その後を追うように役人らしき男が書状を手に歩み出てくる。夜の庭に、朗々たる声が響き渡る。
「リュシア・エーベルハルト嬢! 貴殿を公文書偽造の罪で逮捕する!」
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