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25話 告白

 朝靄が薄れる頃、二人は屋敷を出た。空はまだ白く、東の端にだけ橙の滲みがある。草の上に降りた露が、歩くたびに靴の先を濡らす。

 ロルフは一歩前を歩き、背中だけがその大きさを伝えてきていた。


 声をかけるほどでもなく、しかし黙ったままでいることが不自然というわけでもなく。二人の間には、昨夜テーブル越しに握った手の余熱がまだ残っているような、不思議な空気が漂っていた。


 山の入り口まで来ると、細い獣道が木々の奥へと続いていた。ロルフが立ち止まり、後ろを振り返る。


「足元、気をつけろ」


 それだけ言って、また歩き出す。リュシアは小さく頷いて後に続いた。



 ♢



 登り始めてしばらくは、まだ余裕があった。木漏れ日が足元に斑点を落とし、風が梢の間を通るたびに涼しい空気が頬を撫でる。

 そして鳥の高く澄んだ声が遠くから近くへ、近くから遠くへと行き来する。自然を全身で感じ、心が洗われるような不思議な感覚に襲われた。


 ところが、折り返し地点を過ぎた辺りから様子が変わってきた。

 足が重くなり、呼吸が浅くなる。体がじわじわと熱を持ち始め、心臓の音がやけに耳に近く感じられる。 それでもなんとか歩き続けていたが、やがて酸素を求めて全身が悲鳴を上げ始めた。肩で呼吸をしながら、力を振り絞り足を前に出し続ける。


「大丈夫か」


 ロルフの声に、私は顔を伏せたままかろうじて答える。


「だ、大丈夫、で、す」


 しかしその声があまりにも息切れを隠せていなかったのか、ロルフは少し間を置いてから言った。


「少し休憩にするぞ」


 反論する気力もなく、私は素直に従った。ロルフが傍らにあった平らな岩を確かめてから腰を下ろし、視線で隣を示す。私は感謝と羞恥を半々に抱えながら、その隣に腰を落とした。

 しばらくはただ呼吸を整えることに専念した。吸って、吐いて、吸って、吐いて。心臓がゆっくりと落ち着きを取り戻してくる。汗ばんだ首筋を、風が通り過ぎていく。

 五分ほど経った頃、私は少し俯き加減に口を開いた。


「すみません。私の体力がないばかりに、立ち往生させてしまって」


 きっとロルフが一人で登っていたのなら、立ち止まらずするすると登っていっただろう。私のせいでわざわざ彼の足を止めてしまった。その事実に、胸の内で罪悪感が僅かに湧き上がる。


「いや、こうして立ち止まるのも旅の醍醐味だ」


 ロルフはそう言い、何かを示すように顎をわずかに動かした。目で追うと、薔薇の花が一輪。斜面の岩の隙間から、誰に頼まれたわけでもなく咲いていた。深い赤が、木漏れ日の中に鮮やかに溶けている。


「こういうのは、立ち止まらなければ見えないものだ」


 だから、気にするな。その言葉は口にされなかったけれど、こちらを向く視線がそう言っていた。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。私はもう一度薔薇へ目をやり、その赤の鮮やかさをゆっくりと目に収めた。


 それからも、何度か休憩を挟みながら二人は山を登り続けた。

 立ち止まるたびに、世界が少しずつ顔を変えた。湿った土の上に群れるように咲いた紫陽花。白い翼を大きく広げ、梢の上をゆったりと旋回する鳥。木の根元の苔の上で、細い脚を動かす虫の声。歩いているだけでは通り過ぎてしまうそれらが、立ち止まるたびに不思議な存在感を帯びて目に映った。


 自分が今まで、どれほど速く歩き続けてきたかを考える。普段は足を止める暇もなく、全力で仕事に向かっていた。好きでやっていることだし、決してそれ自体は悪いことではないと思う。だけど偶に立ち止まりこうして新たな発見に興を咲かせることも、きっと大切な時間なのだと感じた。


 だんだんと木の密度が薄くなっていく。風が急に強くなり、空が開けてくる。足元の道が消え、代わりに岩肌が現れた。もう少しだ、とロルフが振り返らずに言う。私は最後の力を振り絞るように足を動かし、その背中を追いかけた。


 頂上に出た瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 空気が変わった。冷たく、薄く、どこまでも澄んでいる。風が平地より強く、髪の毛が頬にかかる。しかしそんなことが気にならないほどの光景が、目の前に広がっていた。


 遠くには青く霞む山々が連なり、その手前に広がる村々は小さな点のように寄り添っている。屋根の上から煙が細く空へ溶けていき、人の営みがこの広大な景色の中に確かに息づいていることを教えていた。大地はどこまでも続き、その端が空と溶け合って境界を曖昧にしている。

 見上げれば、澄み切った蒼穹。白い雲がゆっくりと流れ、時間そのものが穏やかに引き延ばされたかのようだ。

 空気が薄い。冷たい。それでもそんなことが気にならないほどの圧が、この景色にはあった。


 ここでは、すべてが静かで、そして確かだった。大地も、風も、空も——ただそこに在るというだけで、存在が揺るぎない。

 ふと息をつくと、自分がいかに小さな存在かを思い知らされる。だが同時に、この景色の一部としてここに立っているという事実が、なぜか誇らしくも感じられた。


「これは……」


 言葉が、出てこない。しばらくそのまま、風の中に立ち尽くしていた。やがてどうにか言葉を継ぐ。


「絶景……ですね。ロルフやレイトさんが夢中になるはずです」


 雄大な自然と、そこに刻まれた人の証。この先何十年経とうとも、決してこの景色を忘れない。そう確信しながら、私は眼下に広がる世界をゆっくりと目に焼き付けた。

 しばらく景色を堪能した後、ロルフの提案で近くの岩陰に腰を落ち着ける。


「少し遅いが、昼にしよう」


 屋敷から持ってきた包みを広げると、おにぎりが二つ。シンプルな昼食が、この場所ではひどく贅沢なものに思えた。塩の味が、空気の冷たさとよく合う。


 周囲の景色や空気を感じながら、どんどんと口に含んでいく二人。すぐに食べ終わり、私はロルフの方へ顔を向ける。


「連れてきてくれて、ありがとうございました」


「堪能してくれたなら、何よりだ」


「はい。一生の宝物です」


 彼女のその笑顔があまりに屈託のないものだったからか、ロルフはほんの一瞬視線の置き場を失ったように佇んでいた。彼の頬に、うっすらと赤みが差す。誤魔化すように、こほん、と咳払いを一つ。


「大げさだ」


 声は平静を装っていたが、耳の端がわずかに赤い。


「それに、この領にはここ以外にも絶景はある。時間はあるんだ。その内、また案内してやる」


 その言葉を受けて、私は少し表情を曇らせてしまう。ロルフがそれを見て、眉をわずかに下げる。


「もちろん、嫌なら断ってくれて構わないが」


「い、いえ!そういうわけじゃないんです。むしろ……」


 言葉が、そこで止まった。続きが出てこない。胸の内に確かにあるのに、形になる前に溶けてしまう。むずがゆいような、気恥ずかしいような感覚が込み上げてくる。

 ただ、嫌なのではないということだけは伝わったらしく、ロルフは胸をなで下ろしたような顔になった。

 一呼吸置いて、私は言葉を続ける。


「私は王都の命令でここまで来ました。ですから、またいつか命令があれば従わなければなりません。もちろん、ずっとグラナート領にいられる可能性もあります。でも同じように……他の場所へ移ることになる可能性だって、あります」


 叶うことならば、ずっとここにいたい。ロルフと、ユリウス伯と、レイトさんにハインリヒさん。領の街並みを歩いて、人々に触れて。そうやってこの領の一部になっていきたい。

 しかし、貴族である以上王都の命令には従わなければならない。それが、責務だ。

 例外があるとすれば、結婚だろうか。貴族にとって、家の意向は絶対。もし辺境伯の家に入るのであれば、王都よりも領を第一に動かなければならなくなる。

 私が結婚してくれますかと尋ねたなら、ロルフは応えてくれるだろうか。彼は優しいから、もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。でもそれは、卑劣なやり方だ。彼の優しさに甘えているだけ。そんな人間にはなりたくないし、彼を縛りたくもない。


「行きましょうか」


 踵を返そうとしたその瞬間、手首に力強い手が触れた。思わず振り返ると、ロルフの紫紺の瞳が目に入る。

 彼は覚悟を決めた様子で、思いを吐き出した。


「結婚しよう」


 ロルフの目は真剣で、揺るぎなく、まっすぐにこちらを向いていた。


 空気が揺れる。時間が永遠と思える程に、ゆっくりと流れていく。


 私は唇を噛み、泣きそうになるのを必死に押しとどめる。笑顔を繕おうとしたが、口の端が小刻みに震えてしまった。


「気を遣わせてしまって、すみません。移動の話はあくまで可能性の話ですから、そんなに深刻に考えなくても……」


 ロルフは首を振った。静かに、しかし確かに。


「俺は、リュシアに居て欲しいんだ。この領に、そして俺の隣に」


 彼の声は低く、穏やかで、しかし断固たる決意を秘めていた。視線がこちらを捉えたまま、離れようとしない。その真剣さが、ありありと伝わってくる。


「可能性の話だということは分かってる。それでも、万が一にもリュシアと離れることになるのは——嫌なんだ」


 一拍置いて、ロルフは言った。


「俺は、リュシアを愛してる」


 全身を言葉が駆け巡る。

 愛してる。そんな言葉を受け取ったのは初めてだ。他の貴族から疎まれ、嫌煙されてきた私にとってその言葉はどこか遠くのもののように感じてしまう。

 しかし目の前の彼は、ロルフは確かに言ってくれた。この世界で一番言ってほしい人が、言ってほしい言葉を、今この場で言ってくれた。

 気がつけば、頬を雫が伝っていた。一粒、二粒。止めようとしても、止まってくれない。


「……いいのですか」


「ああ」


「でも私は王都では浮いていて、もしかしたら目を付けられてしまうかもしれません」


「構わない」


「失礼な態度を取って、他の領主様から苦情が来たり……」


「構わない」


「これからも、色んな改革をするかもしれません。不平や不満が出てしまうかも」


「全部、構わない」


 ロルフは私を引き寄せ、背中に腕を回した。閉じ込めるように、しかし壊れ物を扱うように、そっと。


「俺はリュシアを愛してる」


 優しい声音で囁かれた言葉。その瞬間、必死に押し止めていたものが一気に溢れた。嗚咽が、涙が、止まってくれない。胸が熱い。幸せが体中を満たしていく。

 いいのだろうか、こんなにも幸せな思いをしてしまって。こんなに嬉しい言葉を貰ってしまって。あまりに満ち足りていて、不意に落としてしまうのではないかと不安になってしまう。

 でも——たとえどんな困難にぶつかったとしても、ロルフとならきっと乗り越えていける。その確信だけが、じんわりと胸の底に根を張っていた。


 しばらく、リュシアはロルフの胸の中で幸せを噛み締めていた。やがてロルフが、そっと顔を覗き込んでくる。


「それで、返事は?」


 私は顔を上げる。そして涙の跡が残ったままの顔で、思い切りの笑顔で答えた。


「喜んで……!」

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