23話 これが恋と知ってしまったなら
舞踏会の翌朝、私は初めて寝坊をした。
目が覚めた時には窓の外はすっかり明るく、壁に当たる光が昼前の角度を教えている。幸い今日は休日なので、仕事に支障は出ないはず。でも、これまできちんと起きれていただけに少しだけ気落ちしてしまう。
急いで着替えながら、どれほど眠っていたのかを考える。昨夜部屋に戻ったのは夜が相当に深まった頃で、それからしばらく眠れずにいた。
ずっとそこにあったのに、見えていなかった何か。朝になっても、その感覚はまだ胸の中心のあたりに居座っている。
ダイニングへ向かうと、ロルフが既に席についていた。顔を上げた瞬間、こちらに気づく。
「遅かったな」
「すみません。寝坊してしまって」
椅子を引きながら答えると、そのまま自分の前の皿に視線を落とす。スープを掬い、飲み込む。ごく当たり前の動作のはずなのに、隣の気配がやたらと意識の中に入り込んでくる。
肩の距離、衣擦れの音、グラスを置く小さな音。
「――顔が赤いぞ」
ロルフの声がして、思わず顔を覆いたくなる衝動を私は何とか手元へ押し返す。
「少し、熱っぽいだけです」
「昨夜、冷えたんじゃないか」
「そういうわけでは……」
言葉を濁しながら水を一口飲む。冷たい液体が喉を通り、一瞬だけ頭が冷えた気がした。しかしロルフがこちらへ顔を向けるたびに、視線が逃げてしまう。目が合いそうになる直前、私の首は勝手に別の方角を向く。
夕食の時も、窓を通して視線が合わさった時も、同じことが繰り返された。廊下でばったり行き合えば胸がうるさくなり、声が上ずりそうになる。ロルフが廊下の向こうに見えただけで、足が少し速くなる。近づきたいのか、遠ざかりたいのか、自分でもよく分からない。
「何かあったのか」
夕食後の廊下で、ロルフにそう問われた。
「い、いえ、何も……」
高速で首を振って、足早にその場を離れる。背後に彼の気配を感じながら、私は鼓動がうるさすぎて自分でも困惑していた。自室に戻り、扉を閉めると、冷たい石壁にそっと背中を預ける。
体が、熱い。顔も、指先も、胸の奥も、燃えているみたいだ。こんな感覚は初めてで、どう対処すればいいのか見当もつかない。深呼吸を一つ。吸って、吐いて。
……私の体は、どうしてしまったのだろう。
♢
それから数日が過ぎたとある夜のことだった。
「今、時間あるか」
廊下で声をかけられ、顔を上げる前に心臓が先に跳ねた。ロルフだ。どうにか平静を装いながら答える。
「ええ、特に予定はありませんが……」
「ちょっと、付いてきてくれ」
行き先も理由も告げないまま、ロルフが歩き出す。私は一拍遅れて後に続いた。
どこに行くのだろうか。夜も遅いし、そんなに遠出というわけではないと思うが。何にしても、いい加減ロルフの顔を見て話せるようにならないと。心の中の感情は好意的なものには違いないけれど、それでも相手の顔すら見ないで話すのはやっぱり失礼だ。
そんなことを考えながら、私はロルフの背を追い掛ける。
連れ出された先は、庭だった。春の少し涼しい夜風が頬を撫でる。生垣の向こうで木の葉が揺れ、古い噴水の石が月明かりを吸って白く浮かんでいる。ロルフは石畳の上にすとんと腰を下ろすと、目で私にも促した。
私はおずおずとその隣に座る。
隣に、ロルフがいる。そのことを意識した瞬間、また胸が高鳴り始めた。おかしな服を着ていないか、変な顔をしていないか、匂いは大丈夫か。普段は気にも留めないことが、頭の中で次々と浮かんでは消えていく。
落ち着いて、と自分に言い聞かせ、何とか息を整える。
ロルフは空を見上げていた。つられて顔を上げると、そこには満天の星が広がっていた。
息を呑む程綺麗な景色。太陽は落ちているのに、辺りが淡く輝いている。大きな星、小さな星、にじむような光の粒が空の高いところから地の果てまで散りばめられ、どんな宝石よりも綺麗だと思った。
王都ではこんな空、見たことがない。かの都市では夜でも城の灯りが絶えず、星は遠い背景に過ぎなかった。
しかしここでは、星が、空がとても近い。手を伸ばせば、届きそうになる程に。
しばらく、二人とも黙っていた。でも沈黙の形が、不思議と息苦しくない。綺麗な景色と、隣にロルフがいること。それだけで、胸の奥にじんわりとした温かさが広がっていく。
すごく、幸せだ。
星空の下、静かに空を仰ぎ見る男女。柔らかな空気がその場に流れ、リュシアの胸をえもいわれぬ感情が満たしていった。そんなときふと
「何か、してしまったか?」
ロルフの声がした。
思いもよらない問いに、目を瞬かせる。恐る恐る横を見ると、彼は平静を装いながらも眉がわずかに下がっていた。
「なぜ、そのようなことを?」
「……最近、目を合わせてくれなかっただろう」
吐き出すように言うと、ロルフはすぐに顔を背けた。頬に、うっすらと朱が差しているのが月明かりの中でも分かる。
その姿に胸が、きゅっと締め付けられる。
「あれは……」
何と言えばいいのか分からない。胸が高鳴ることも、体が熱くなることも、自分でも理由を言葉にできないでいる。ただ一つだけ、確かなことがある。
「理由は......すみません、分かりません。でも、ロルフを嫌っているわけじゃないんです。むしろ……」
むしろ、何だろう。彼のことは、好ましいと思っている。けれど、ただの好きとも少し違う気がする。自分の気持ちの輪郭が、まだうまく掴めない。
「そうか」
ロルフは、心底安堵したような顔をした。それから空へ視線を戻し、少し間を置いて穏やかに続ける。
「グラナート領から見える星空は、綺麗だろ」
「ええ」
思わず感嘆が漏れる。
「王都では、見られない景色です」
「だが、絶景はここだけじゃない」
ロルフは少し自慢げな顔をした。
「近い内に、最高の場所に連れて行ってやる。この街が一望できるんだ」
その光景を思い浮かべると、自然と口角が上がった。
「楽しみです」
静寂が戻り、虫の声だけが庭に満ちている。昼間では決して見えない景色、音色。そんな夜だけの空気に身を浸しながら、私達は静かに星を見る。しばらくして、ロルフがまた口を開いた。
「リュシアは、この領のことをどう思う」
少し考えてから、答える。
「良い領だと思います。みんな、生き生きとしていて。全力で生きているという感じがします」
ロルフの口元が、すっとほぐれた。
「そうだろ。自慢の領だ」
それから彼は唇を引き締め、どこか遠くを見るような目になった。
「だからこそ、守りたい。そして……誰もが笑顔になれるような、そんな領にしたいんだ」
少し間があき、彼は困ったように苦笑いが浮かべた。
「難しいだろうけどな」
けれど次の瞬間、決意が帯びた声で言い切る。
「それでも、それが俺の夢なんだ」
私はロルフの顔を見た。
顔、空気、彼の全てから本気だということが伝わってくる。しかしその瞳だけは、まるで子どものように輝いていた。高潔で、真っ直ぐで、純粋な光。月明かりの中でまっすぐにこちらを照らしている。
優しさと、誇りと、覚悟が入り混じった瞳。その目を見た瞬間、理解した。――ああ。私は、今この人に恋をしている。
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