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22話 この気持ちの名前は

第2章最終話となります。

 舞踏会当日の朝、私は鏡の前に立っていた。

 黒を基調にしたドレスは、裾へ向かうにつれて赤いベールが幾重にも重なり広がっている。肩の露出が多く、見慣れない自分の鎖骨が視界に入ってくる。胸元には、桃色のアイビーのネックレス。小さな花びらが、燭台の明かりを受けてほのかに揺れている。


 悪くはない、と思う。思うのだが――本当に、これで大丈夫だろうか。


「お待たせいたしました」


 扉を開けると、廊下にロルフが立っていた。白いジャケットに青のベスト。私が選んだとおりの組み合わせが、思っていた以上に彼に馴染んでいる。しかしそれを言葉にするより先に、私はロルフの目が自分に向いているのに気づいた。


「本当に、似合っていますか?」


 口に出てしまったのは、どちらかというと弱音に近い問いかけだった。

 ロルフは少し間を置き、それから真剣な目をこちらへ向けた。ごまかしも、社交辞令も持ち合わせていない人の顔だと分かる。


「ああ。似合ってるし、綺麗だ」


 迷いのない声だった。その目を見ていると、言葉の重さが直接胸に届いてくる。思わず視線を落とすと、頬に熱が集まってくるのが分かった。

 少しの間俯いてから、深く息を吸い込む。吐き出すと、胸の緊張が少し緩んだ。


「行きましょう」


 顔を上げ、前を向く。ロルフが隣に並び、二人で歩き始めた。


 道中、視線がいつのまにか横へ流れる。

 ロルフの横顔。高い頭身に白いタキシードが映えて、灯りの中で輪郭がすっきりと際立っている。普段の鍛錬着姿とは異なる佇まいで、まるで御伽噺の中から抜け出してきたように見えた。

 思わず、足が遅くなる。その変化に気づいたのか、ロルフがこちらへ目を向けた。


「何か変なところがあったか」


「いえ、そういうわけではなく」


 言いながら、少し間が開く。このまま飲み込もうとも思ったが、なぜか言葉が続いた。


「王子様みたいだと、思いまして」


 口にした瞬間、自分の顔が熱くなるのを感じた。思ったことが、そのまま出てしまった。視線を少し落とし、口元を引き締める。


「なら、リュシアは姫だな」


「……私には荷が重いですよ」


 自嘲気味に微笑みながら答える。姫、などという言葉の似合う人間ではない。華やかな場に馴染めず、帳簿の読み方ばかりを覚えてきた。私はそういう人間だ。



 ♢



 劇場の扉を抜けた瞬間、光が降ってきた。

 天井には煌々としたシャンデリアが揺れ、その光が無数に乱反射して会場を満たしている。足元には毛皮の絨毯。一足踏み込むだけで、靴底から格式が伝わってくる。周囲を見渡せば、豪華な装飾品を身に纏った男女が所狭しと立ち、談笑の声と香水の匂いが入り混じっていた。


 初めてではないはずなのに、圧倒される。王都の舞踏会でも慣れなかった感覚が、またこみあげてくる。


 しばらくして、前方に明かりが集まる。


「この度はお集まりいただきありがとうございます」


 ラインが現れ、優雅に一礼した。穏やかな声が、広い会場に澱みなく広がっていく。


「今回の式典は、同盟関係を祝したものとなります。しばらくの間歓談を楽しまれた後、舞踏会を開ければと考えております。まずは、我が商会によるとびきりの料理をご堪能ください」


 言い終わるなり扉が開き、料理を載せた机が次々と運ばれてくる。肉料理、魚料理、彩り豊かなスイーツ。芳しい香りが会場に広がり、自然と人が料理へ集まっていく。


 私もそっと近づき、ステーキをひとかけら口に運んだ。瞬間、思わず目を細める。肉厚がありすごくジューシーなのに、噛んだそばから溶けていく。ソースのワインの風味が後から香り、思わずもう一口手が伸びた。


 さすが、この領一の商会だ。隣を見ると、ロルフが複雑そうな顔をして料理を口に運んでいる。美味しいとは感じているのだろう、しかしそれをラインの手前、顔に出したくない。そんなところだろうか。

 飢饉の際は協力してもらったとはいえ、レイムント商会は徴税官の不正に関わっていた。ロルフが嫌う理由は分かる。しかしそれ以上に、彼はラインという人間を個人的に苦手に思っているのだろうとも思う。


 しばらくして、伯のそばに一人の男性が現れた。黒のタキシードを隙なく着こなし、白髪が整然と撫でつけられている。三十代後半ほどの面立ちに苦労の皺が刻まれているが、その凛とした姿は人目を引いていた。何やら言葉を交わしていたかと思うと、伯がこちらを示す。そのまま彼の視線がこちらへ向き、歩み寄ってくる。


 何の用だろう、とぼんやり考えていると。彼は一礼しながら、自己紹介を始めた。


「初めまして。わたしは隣のイグニス領の領主、レニウス・イグニスと申します」


 そのまま片膝をつく。まるで王子が姫に口づけする前のような、格式のある動作で。


「この度は、あなたのお陰で救われました。イグニス領を代表して、心からのお礼を」


 私は慌てて前に出る。


「顔をお上げください! 備蓄を分けられたのはユリウス伯ですし、危機を乗り越えられたのはレニウス伯ご自身のお力です」


 レニウス伯は目をぱちくりとさせた後、柔らかく微笑んだ。


「ユリウス伯がおっしゃっていた通りのお人なのですね」


 立ち上がりながら、言葉を続ける。


「何か力になれることがありましたら、何でも申しつけください」


 私は少し迷った。領主様を前にして言うには、角の立つ話かもしれない。それでも言わないより言った方が、この領のためになる。そう思った瞬間、口から言葉が零れ落ちていた。


「でしたら、ユリウス伯からもお聞きかもしれませんが」


 真っすぐ見据えながら、続ける。


「人材をお借りしたいのです。できるだけ、たくさん」


 するとレニウス伯の隣から、一人の女性が前に出た。


「あなた、領主様を前によくそんなことが言えるわね。図々しい」


 怪訝な顔で私を見ている。すぐにレニウス伯が顔を曇らせ、頭を下げた。


「恩人に失礼だろう。申し訳ありません、妻が余計な口を」


 私は婦人をまっすぐに見て答える。


「ご不快に思われたのなら申し訳ありません。しかし、グラナート領のためならば私は国王様にだって同じ要求を致します」


 婦人は一瞬たじろぎ、一歩後ずさる。レニウス伯が静かに婦人を窘めると、彼女は納得のいかない表情のまま、その場を離れていった。


「重ね重ね申し訳ありません」


「頭をお上げください。気にしていませんから」


 私は少し早口に言う。レニウス伯は微笑み、「改めて、今回は本当にありがとうございました。それと、領のためならば恐れずに進む。その姿勢に、心からの敬意を」と告げてから軽く会釈し、その場を後にした。


 周りの領まで、ちゃんと救えた。それが実感として届いてくると、胸の奥で何かが静かにほぐれていく感じがした。心の底からよかったと、そう思う。

 一方で婦人の言葉が、少しだけ胸に引っかかる。王都にいた頃も、必要だと思ったことがあれば言い方も立場も気にせずに口にしていた私は、いつだって浮いていた。生意気だと噂されていたことも、知っている。

 やるべきことをやっていただけだと、分かってはいる。ただ、やっぱり少し痛い。



 ♢



 やがて会場は、舞踏会へと移り変わった。

 柔らかな弦楽が鳴り始め、参加者たちが次々と手を取り合い踊り始める。艶やかなドレス、磨き上げた靴、宝飾品の光。美男美女が豪奢な衣装を纏い、御伽噺の一場面のように輝いている。


 その光景が、少しまぶしく感じられた。なんだか自分には相応しくないような感じがして、私はその場を離れようと会場の端にあるそっと階段を上がり、バルコニーへと出た。

 春の夜風が頬を撫でる。欄干に肘をついて夜空を仰ぐと、星がいくつか瞬いていた。


 こういう場は、昔から苦手だった。豊かな体躯も、場を彩るほどの優雅さも、私には備わっていないものだ。執務室で帳簿と向き合っている方が、幾分かましだと感じてしまう。


 隣に人の気配がして顔を向けると、白いジャケットの姿があった。彼は少し疲れた顔をして、欄干のそばに立っている。


「……ロルフ」


「さっきまで、色々な人に顔合わせをしていてな」


 肩を回しながら、ロルフが言う。


「次期領主としての振る舞いは、どうしても肩が凝る」


「お疲れ様です」


 こちらに視線を向けると、ロルフは疑問を問い掛けてきた。


「こんなところで、何をしているんだ」


「こういう場が苦手で……」


「舞踏会には慣れているのではなかったか」


「行かなければならなかっただけです」


 王都の舞踏会では必ずといっていい程、王子が呼ばれていた。舞踏会に婚約者が不在ではさすがにまずい。しかしもし任意の出席だったなら、きっと行かなかっただろう。


 ふと、ロルフの方を見ると口元がほんの少し緩んでいた。私は思わず、眉をひそめ不満げな表情を浮かべる。


「何ですか、その顔は」


「いや。リュシアにも苦手なことがあったんだなと思ってな」


「当たり前です。むしろ苦手なことばかりです」


 どうすれば人に好かれるのか。どうすれば場に馴染めるのか。貴族としてのあるべき立ち姿が、ずっと分からなかった。

 だから紙に向き合い続けた。知識の積み重ねの中に、逃げ込んだのだ。


 ロルフはばつが悪そうな顔をしてから、言う。


「悪かった。完璧だと思ってたリュシアに苦手なものがあると知って、勝手に親近感を感じていたんだ」


「別に気にしていませんよ」


 首を振りながら、そういえば先日自分も同じことをロルフに感じていたことを思い出す。すると、自然と笑いが漏れた。


「どうした?」


「案外、似ているなと思いまして」


 ロルフは少し考えるような顔をしてから、静かに笑い返した。


 しばらく、二人して夜風に当たる。会場の音楽が切り替わり、柔らかなピアノの旋律が二階まで流れてくる。耳に覚えのある三拍子。夕食後の庭で、何度も繰り返した楽曲だ。

 すると、ロルフが手を差し出してくる。


「踊らないか」


 私はその手を取り、足を組み交わしていく。

 月明かりの中、二人のワルツが紡がれていた。


 まるで、この世界に二人しかいないみたい。目が、耳が、全身がロルフを感じている。繋いだ手から、楽しいという感情が伝わってくる。その感情に引き寄せられるように、私の中にも喜びが満ちてくる。ダンスがこんなにも楽しいものだなんて、知らなかった。


 しばらくして音が止まり、二人は静止する。


「上手くなりましたね、ロルフ」


「リュシアのお陰だ」


 和やかな空気が、夜気の中に漂う。ロルフが一歩、こちらへ近づく。少し黙ってから、言葉を選ぶように口を開いた。


「俺は、辛いものが苦手だ。高い所も苦手だし、料理の類も全くできない」


 唐突な告白に、私は思わず目を瞬かせる。ロルフはまっすぐ前を向いたまま、続ける。


「しかし、それでも父上や友人は俺を大切に思ってくれている。だから、無理に直そうとは思わない」


 息を吸い、吐く。ロルフの瞳は真っ直ぐ私を捉えて離さない。


「リュシアがどう思っているかは分からないが、少なくとも俺は、あんたを大切に思っている」


 夜風が、静かに吹いた。


「領に尽くしてくれた献身を。果たすべきことのために全力で駆け抜けるその性格を。力強さと共存するその繊細さを、俺は知っている」


 一拍、間が落ちる。


「だから、いいんだ。苦手なものがあっても、優れていなくても。誰かに大切に思われているなら、それだけでいい」


 ……初めて大切だと、言われた。ここにいていいと。

 自分の全てが肯定されたような気がして、目尻がじわりと熱くなる。溢れそうになるのを、瞬きをこらえることでぎりぎり留める。すごく、本当にすごく、嬉しい。


 同時に、喜びとは別の感情が胸の奥で動いているのを感じる。彼の言葉を受けて、心臓が速く打ち始めていた。全身に熱が帯びるような感覚があって、どこか指先まで鼓動が伝わっていく。

 ――ずっとそこにあったのに、見えていなかった何かが、今すとんと落ちた。そんな気がした。

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