20話 ドレスとタキシード
ユリウス伯に呼ばれたのは、私が考えた仕組みが動き始めてしばらく経った頃のことだった。
春の終わりの午後で、執務室には窓を透かした柔らかな光が差し込んでいる。伯は書面から顔を上げ、椅子の背にゆっくりともたれると、「少し聞いてほしい話がある」と切り出した。
どうやら飢饉の危機の際に食料援助を求めてきた隣領との交流が未だ続いているらしく、そこで諸々の仕組みを共有したいという話だった。私は静かに耳を立てる。伯の口調は穏やかだが、その眼差しには判断を求める色が滲んでいる。これは意見を聞いているのではなく、見解を問われているのだと直感した。
「そのようなことを、レイムント商会にポロっと溢してしまったのですよ」
伯が少し苦笑を交えて言う。
「すると、ラインに強く止められましてね」
私は少し意外に感じる。確かに商会との取引では彼の鋭さに幾度か舌を巻いたが、他領との交流にまで口を挟むとは思っていなかったからだ。
「何と言っていたのですか?」
「それではただの施しになってしまいますよ、と。短期的には構わないかもしれないが、長期的には必ず不利益になってしまう、とのことでした」
私はしばらく沈黙する。
それは、確かに正しい。緊急時の援助は別として、平常時に無償で知識を渡し続けるのは、渡す側にも受け取る側にも歪みを生む。受ける側には依存が育ち、与える側は消耗していく。均衡のない関係は長くは続かない。
「さらに、こう続けて言っていました」と伯は穏やかに告げる。
「きちんと見返りを求めるべきです。ついでに同盟関係も結べたら言う事なしです、と」
私はしばらく黙って、その言葉を頭の中で転がした。
確かに正論だ。しかし、あのラインの言う事だ。純粋な助言と受け取っていいものか。彼は賢い。だからこそ、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。
しかし、今それを考え込んでも詮無いことだろう。私は頭の中でひとまずその問いを脇に置き、伯の言葉に意識を戻した。
「それで」と伯は続ける。
「三つほど話があります」
一つ。私の考えた仕組みについて、他の領へ教えに行く機会が今後出てくるかもしれない。
二つ。仕組みを教える代金として何か要求があれば、遠慮なく申し出てほしい。
三つ。持ち掛けた同盟に他領が快諾してくれた。それに先んじて、レイムント商会が舞踏会を開くとのことなので、ドレスとタキシードを買ってきてほしい。グラナート家は軍人家系ゆえ、そういった衣装の用意がないのだと言う。
「一つ目と三つ目の件は了解しました。空いている時間にでも、すぐに買いに行ってきます」
私は答え、続ける。
「二つ目に関しては……」
言葉がそこで止まる。何が必要か。この領に足りないものを問われれば、指折り数えて日が暮れる。特産品、教育水準の底上げ、管理側の人員不足。山ほどある。でも今、一番必要なものは何か。
手を顎に当て、少し俯く。頭の中で、この数ヶ月間見てきたものを静かに並べていく。嘆願書の山、備蓄の帳面、遠回りをする荷馬車、泥濘に車輪をとられた農民の姿――。
私は顔を上げ、要望を口にした。
「人員を、お借りできませんでしょうか」
伯がわずかに目を見開く。
「大丈夫だと思いますが……何に使うのですか?」
「インフラの整備に使います」
私は続ける。
「道を整えることで、人と荷馬車の行き来が盛んになります。人は便利な場所に集まるものです。整備された道を見て商人が集まり、やがては移民もやってくるかもしれない。そうなれば、税収も上がります」
伯の目をまっすぐに見る。
「もちろん、そう上手くはいかないでしょう。ですが少なくとも、発展の足がかりにはなると思います」
言い切ると、伯は短い沈黙の後、静かに頷いた。
「分かりました。要望の方はそう伝えておきましょう」
その表情は、ほんの少し嬉しさを滲ませているように見えた。私は頭を下げ、部屋を後にしようと立ち上がる。すると――
「待ってください」
呼び止める声と同時に、机の上でじゃらんと重い音がした。
「これを」
振り返ると、金貨の詰まった袋が置かれている。一目で相当な額だと分かる。
「……これは?」
「ドレスとタキシードの代金です」
自分の給金から出すつもりでいた私は、思わず首を振る。
「こんなに受け取れません」
伯は一拍置いてから、声色を少し落とした。冗談めかした響きの中に、どこか本気の色が滲んでいる。
「舞踏会は同盟に先んじてのものです。つまり、舐められてはいけないのですよ」
「それは……そうですが」
「それに、これは仕事なのですから。金額など気にせず、好きなものを買ってきなさい」
私は少し考える。グラナート家に余裕がないことは、帳面を扱ってきた私にはよく分かっている。なるべく安く済ませよう。そう決めた瞬間、伯がにこりとした。
「とびきり豪華な服を、期待していますよ」
ウインクまでしてみせる。
私は思わず小さく息を吐いた。この方には、つくづく敵わない。
「……分かりました」
諦めたように呟き、今度こそ部屋を後にした。
♢
翌日は偶々休みで私はロルフと二人、服飾屋の前に立っていた。
店の扉を開けると、鼻先にほのかな布の香りが漂う。見渡す限り、ドレスとタキシードが並んでいた。
真紅のイブニングドレス。艶のある黒のカクテルドレス。肩を大きく開いたものから、首元まで覆うものまで、形も色も様々だ。ゆったりとした裾が床に広がるものがあれば、体のラインが出るものもある。
問題は値段だった。この店は王都の高級店と比べても、引けを取らない。私はたじろいだが、伯の言葉を思い出し、ぐっと踏み止まる。小さく息を吐いてから、店内をぐるりと見渡した。
「そういえば、こういう服は慣れているのか」
隣でロルフが聞いてくる。
「ええ。王都にいた頃は、舞踏会に出る機会がそれなりにありましたから」
「そうか」と短く返すと、彼はしばらくタキシードの列を眺めていたが、やがて困ったように続けた。
「なら……俺に似合うものを選んでくれないか。自分に何が合うのか、さっぱり分からない」
「分かりました」
私は短く答え、ロルフに合わせるものを見繕い始める。
この黒髪と、すっきりとした顔立ちには何が合うだろう。あまり複雑な色柄では重くなりすぎる。単色がいい。だとすると、白か黒か――。
目の前のジャケットを手に取り、彼が羽織っているところを頭の中で描いてみる。いや、これは少し丈が長すぎる。次。袖口の具合がよくない。次。色味はいいが、生地が硬そうだ。次、次と見比べていくうちに、腕が止まる。白のジャケットとスラックス、そこへ青のベストを合わせると、地味になりすぎず、しかし主張しすぎもしない。ロルフの輪郭に、自然と服が馴染む絵が浮かんだ。思わず顔が緩んでしまう。
「これにしましょう」
「……本当にいいのか?」
「ええ、きっと似合います」
ロルフは少し間をおき「そうか」と言いながら服を見た。どこか照れているような、そうでもないような、判断のつかない顔をしている。
私はその様子を横目に、会計へと向かった。列に並びながら思う。誰かのために服を選ぶのが、こんなにも楽しいものだとは知らなかった。その人がどう見えるかを想像しながら、合う合わないを考えていく。不思議なほど夢中になってしまう。
「何だか、楽しそうだな」
ロルフが、こちらの顔を覗き込むようにして言う。
「ええ、楽しいです」
思わず笑顔が出た。ロルフはその返事を聞いて、「そうか」と低く呟く。その口元が、かすかに緩んでいた。
「リュシアのものは?」
「ああ、そうでした」
私は店を見渡し、店内で一番安い質素なデザインのドレスを手に取る。これにしよう。そう思って会計へ向かおうとすると、ロルフが前に立ちはだかった。
「父上は豪華なものを望まれたのだろう」
「それは……そうですけど」
「別に贅沢をしろと言ってるわけじゃない。ただの仕事だと思えばいい」
少し間が開く。
「……そう、ですね」
私は二番目に安いドレスを手に取った。するとロルフがまた前に立ち「聞いてたのか」と、今度は少しむっとした顔で言う。
「でも、これくらい質素な方が私には似合います」
「……」
ロルフはしばらく黙り込んだ後、腕を組んで店内をぐるりと見渡し始めた。一着一着、真剣な目で見ていく。
私は呆気に取られて、その横顔を見つめていた。自分のものでもないのに、なぜここまで必死になるのだろう。その理由が分からないまま、ただその姿を見ている。
やがてロルフが立ち止まった。
手に取ったのは、黒を基調としたドレス。裾に向かって広がる豊かなスカートの部分には、赤いベールが幾重にも施されている。まるで御伽噺の中の舞踏会から飛び出してきたような、そんな一着だった。
「試してみろ」
「私には似合いませんよ」
「いや、絶対に似合う」
そこには一切の迷いがなかった。断言、というより確信に近い声色だ。その目を見ていると、言い返すことがだんだん難しくなってくる。
仕方なく試着室に入り、鏡の前で袖を通す。王都にいた頃も舞踏会のたびにドレスを着てきたが、周りの令嬢と比べて胸囲も気品も及ばないことがずっと引っかかっていた。私にとって、舞踏会は少し憂鬱な行事だ。
カーテンを開き、ロルフの前に立つ。彼はしばらく、無言だったがやがて「……綺麗だ」と感嘆するように呟いた。
飾り気のない、ただそれだけの言葉。だからこそ、すとんと胸の中心に落ちてくる。頬に熱が集まるのが分かった。
ロルフは嘘を言う人ではない。だから少なくとも、お目汚しにはなっていないのだろう。私自身は、自分がこの絢爛なドレスを着こなせているとはとても思えない。それでも、彼が「問題ない」と言ってくれたのだからそれを信じてみよう。
私は購入を決め、会計を済ませた。するとロルフが「本当にいいのか」と聞いてくる。
「ロルフが選んだのでしょう?」
「……俺ばっかり盛り上がっていたようだったら、悪いと思ってな」
少し申し訳なさそうな顔で、そう謝るロルフ。私は小さく首を振り、それを否定する。
「正直、自分ではあまり似合っているとは思いません」
それは本当のこと。しかし、私は「でも」と続ける。
「ロルフが綺麗だと、言ってくれましたから」
軽く微笑みながらそう言うと、ロルフも小さく笑い返した。
「ああ、心からそう思った」
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