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19話 この笑顔を、俺はきっと生涯忘れない

 部屋には、リュシア、ロルフ、ユリウス伯の三人が集っていた。窓から差し込む春の光が、机の上に広げられた紙束を白く照らしている。

 

 私は資料を手に、口を開く。


「とりあえずの危機は脱しました。でも、まだ終わりじゃありません」


 二人が静かにこちらを見る。


「同じ危機が来たら、この領は今度こそ破綻してしまいます。だからこそ――二度と起こさないための仕組みが必要です」


「どんな案があるんだ」


 ロルフが前のめりに問い掛ける。


「今回の災害の根本的な原因は、農作物が単一だった点にあると思います。一つだけでは想定外の災害が起きた時に脆すぎる。だから、増やします」


 私は一拍置き、続ける。


「稲だけでなく麦、二つを主食とするのです」


 二人が少し考え込む様子を見せる。眉間に皺を寄せながらも、頭ごなしに否定しない。それだけで、ここは王都ではないと改めて感じた。


「農作物を増やすのは賛成だ」


 ロルフが腕を組みつつ、発言する。


「だがこれまでずっと同じものを育ててきた人間が、そう簡単に切り替えられるのか?」


 もっともな懸念だ。だからこそ、対策を考えてきた。


「前に、レイムント商会に行った時のことを覚えていますか?」


「ああ」


「その時、私が彼らに要求をしたことも」


「……農具を安く売ってくれ、という話だったか」


「そうです」


 私は頷く。


「その農具を餌に、農作物の入れ替えを進めます」


 伯が少し考える仕草を見せた後、静かに口を開く。


「つまり、農作物の入れ替えをした人には農具を安く売る。そうすることで、切り替える人間が自然と増えていく――そういうことですか」


「はい。それなら、入れ替える人間とそうでない人間の間で、極端な差も出にくいはずです」


 私は続ける。


「さらに、もう一つあります。種の貸し出し制度を始めたいのです」


 ロルフと伯が、同時に首を傾げた。


「かつて飢饉が起きた際、種まで食べてしまい翌年の農作物が激減したという事態が各地で頻発したそうです。そこで、種まきの際に種を貸し出し、収穫の際に返却してもらいます。そうすることで、植えるものすら失うという最悪の事態を防ぐことができます」


 沈黙が落ちる。二人が資料を見つめ、頭の中で計算を回しているのが分かる。

 きっとここが王都なら、出過ぎた真似だと一蹴されていたはずだ。けれど、この二人ならきちんと話を聞き、向き合ってくれる。――それだけで、心は不思議と軽くなった。

 やがてロルフが顔を上げ、驚いたように口を開く。


「……よく、そんなこと思いつくな」


「種もみの制度自体は本に載っていたものですから、私が考えたわけではありません」


 静かに首を振ると、ロルフは少し間を置いてから言い直す。


「だとしても必要な知識を必要な時に引き出せるのは、誰にでもできることじゃない」


 彼は、まっすぐこちらを見た。


「本当に、すごいなリュシアは」


 飾りのない言葉。それが余計に、むず痒く胸に刺さる。私は思わず視線を逸らし、頬に熱が集まるのを感じた。

 誰かにそんなふうに褒められた記憶が、私にはほとんどない。王都では能力は当然のものとして扱われ、できて当たり前、できなければ問題という空気の中にいた。だから、こんなに素直な賛辞の受け取り方が分からなかった。


 柔らかな空気が漂う中、伯が静かに口を開く。


「分かりました。リュシア嬢の提案、全てやってみましょう」


 思わず、聞き返していた。


「……いいのですか?」


 提案してみたものの、農作物の入れ替えは却下されると覚悟していた。手間も時間も相当かかる。王都で同じことを口にしようものなら、数秒と経たず一蹴されていたはずだ。


「ええ」


 伯は力強く頷く。彼の瞳に迷いは見えなかった。その信頼が、じわりと胸に染みる。このために、ここまで来たのかもしれない。そんな気さえした。

 横を見ると、私の様子を見てロルフが嬉しそうに微笑んでいた。伯がこほんと咳払いをする。


「これから忙しくなります。だから二人とも、明日は休日にしなさい。ゆっくり休むように」


 山積みの仕事が頭に浮かび、反論しようと口を開きかける。しかし伯の目は、有無を言わせない静かな圧を持っていた。私は言葉を飲み込み、小さく頷く。


「……はい」


「よろしい」


 伯は立ち上がり、部屋を後にしようとした。その時扉の前で立ち止まり、振り返る。


「そういえば、明日は街の方でバザーがやっているそうですよ。二人で行ってみてはどうですか」


 それだけ言い残し、伯は静かに部屋を出ていった。

 しばらく、沈黙が続く。やがてロルフがゆっくりと顔を背けたまま、口を開いた。


「明日、何か予定はあるか」


「いえ、ありません」


 なぜ顔を見せないのだろう、と思いながら答える。


「そうか」


 短い間。


「なら、一緒にバザーに行かないか」


 想像してみる。ロルフと並んで街を歩くその光景を。返事は案外するりと出た。


「はい、喜んで」


 思わず顔がほころんだ。誰かに誘われるのは、やっぱり嬉しい。


 相変わらずロルフは顔を背けたままだったが、その背中や肩の辺りから、隠しきれない喜びのようなものが滲み出ていた。


「また明日」


 それだけ言い残し、彼は一度もこちらを向かないまま部屋を出ていった。



 ♢



 翌日、屋敷の入り口で待ち合わせし、二人で街へ向かう。


「そういえば、バザーというのはどういうものなのですか?」


「広場に集まって、色々な奴が店を開くんだ」


 ロルフが説明を始める。


「要らなくなったものや、この日のために拵えたものを売ったり買ったり。そういう場だ」


「つまり、普通の方々がその場限りで商人になる。ということですか」


「そういうことだな」


 広場に着くと、熱気が一気に押し寄せてきた。料理人、農民、鍛冶士、子どもを連れた母親。様々な人が様々なものを売り、買い、笑い声が幾重にも重なり合っている。本業は別にある人たちが集まっているはずなのに、その熱は大きな商会にも引けを取らない。


「……すごいですね」


 思わず漏れた言葉に、ロルフが「そうだな」と短く返す。その横顔はどこか誇らしげで、まるで子どもを見守るような柔らかさがある。領主の息子としての顔を、不意に見た気がした。


 二人で店を巡っていると、とある店の前でふと足が止まる。

 アクセサリーを並べた店だった。ピアス、指輪、ネックレス、様々なものが木の台に並んでいる。その中の一つに、目が吸い寄せられる。


 桃色のアイビーを模したネックレス。細い銀の鎖に、小さな花びらが連なっている。

 王都にいた頃にほんの短い息抜きをしようと庭へ出たとき、石壁を這うアイビーを見て心が和らいだことがあった。あの感覚を、不意に思い出した。

 どれくらい見ていたのだろう。気づくとロルフが店主に向かって「それをくれ」と言っていた。


「いえ、あの……」


 私は慌てる。


「欲しくて見ていたわけでは、ないですから」


「でも、綺麗だと思ったんだろう」


「それは……そうですけど」


 言葉に詰まる。


「だとしても、買っていただくわけには」


 ロルフは少し考えた後、口角を上げた。


「じゃあ、俺にも何か一つ買ってくれ。それでおあいこだ」


「……それなら」


 私は店の品を改めて眺める。何がいいだろう。ロルフは顔立ちが整っているから、何でも似合いそうな気はする。それでも、選ぶなら――


「これにします」


 白いマーガレットを模したネックレスを手に取り、代金を払ってロルフに手渡す。彼の黒髪には、白い花がよく映えるだろうと感じたためだ。

 ロルフは受け取り、さっそく自分でつけようとするが、首元が見えず指先が手間取っている。見かねて私は「貸してください」と手を差し出した。細い鎖を受け取り、彼の首の後ろで留め具を合わせる。


「終わりました」


 私がそう言うと、ロルフはしばらく黙り込み、胸元の白い花を見つめていた。


「......綺麗だ」


 選んだものにそこまでの感想を言われるとは思わず、私は思わず顔を伏せてしまう。嬉しさと恥ずかしさが同時に沸き上がってくる。


「本当に、綺麗だ。ありがとう」


 静かな、しかし心からの言葉だった。

 誰かにプレゼントを渡したのは初めてだったけれど、気に入ってもらえてよかった。胸の奥が少し軽くなったような気がする。


 ほっとした瞬間、ロルフの腕がすっと伸びてきた。思わず体が固まる。

 何かと思う間もなく、首元に冷たい感触。するりと滑るような鎖の感覚があって、桃色のアイビーが胸元に落ちてきた。

 ロルフが元の位置に戻り、こちらを見る。そして、私の耳には届かないくらいの小声で、ぼそりと呟いた。


「綺麗だ」


 自分につけられた首飾りを、両手でそっと覆う。手のひらに、小さな花びらの形が触れる。

 誰かに贈り物をしてもらったのは、初めて。だからこんなに胸が温かくなるものだとは、知らなかった。全身に熱が広がっていって、すごく温かい。


「ありがとうございます。とても......とても嬉しいです」


 私は顔を上げ、真っ直ぐ彼を見て言った。これまでで一番の精一杯の笑顔で。ロルフはその笑顔を見て、少しの間黙ってしまう。




 彼はその大地に咲き誇る花々のような笑顔を見て確信していた。俺はこの笑顔を一生忘れることはないだろう、と。

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