18話 宿る気持ち
山場であった冬は過ぎ去り、春。
市場には供給が少しずつ戻り、冬の間息を潜めていた店先に色が戻ってくる。朝の露台に並ぶのは萎びた根菜ばかりではなくなり、若い葉物や薄紅の花を模した焼き菓子までが顔を出すようになった。
散った花びらが新たにつぼみを抱く頃、私は執務室で羽ペンをゆっくりと置いた。
机の上には、三枚の紙が並んでいる。過去の災害記録。現在の被害規模。そして残りの備蓄量の推移表。数字の列が整然と縦に並び、最後の行で一つの結論を形作っている。
私は椅子の背にもたれ、大きく息を吐いた。
「……もう、大丈夫」
誰に告げるでもなく、口から零れる。それだけで胸の奥にあった何かが、ほんの少し緩む感じがした。
♢
昼食の席には、伯とロルフが揃っていた。
ダイニングに差し込む春の陽が、白いテーブルクロスをやわらかく照らしている。料理は質素だが温かく、スープの湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。
飢饉対策に人手を募ったところ、伯の人望のためか応募が殺到し、中には無給で構わないという者まで現れたそうだ。そうした事情もあり、余談こそ許さないものの、私たちにはいつもの日常が少しずつ戻ってきていた。
スープを一口含んだところで、私は二人に向き直る。
「報告があります」
「聞こう」と伯が頷く。
「過去の災害と現在の被害状況、そして残りの備蓄量を照合した結果――次の収穫まで、一人の犠牲者も出さずに乗り越えられる見通しが立ちました」
一拍の間を置いて、私は続ける。
「もう大丈夫です。峠は越えました」
穏やかにそう告げると、向かいでロルフが思い切り拳を握り、小さくガッツポーズをした。すぐに気づいて照れたように拳をしまいこむが、口元の笑いは隠しきれていない。
伯は静かに頷き、スプーンを置いた。その目には、確かな安堵の色が滲んでいる。
「……よくやってくれた」
伯は万感の思いを込め、そう言った。そして僅かな間の後、彼はゆっくりと頭を下げる。
「この危機を乗り越えられたのは、お前たちのお陰だ。本当に、ありがとう」
心からの言葉だと分かる。だから、余計に目の奥が熱くなった。
たとえ誰に顧みられなくともなすべきことであれば躊躇わずにやったと、そう思う。それでも――ここまで頑張ってきてよかったと、心の底から感じた。
「おやめください、父上」
ロルフが少し困ったように言う。
「それに、俺は何もしていません。全部リュシアのお陰です」
「いえ」
私は即座に首を振る。
「ロルフがいなければ頓挫していた場面が、いくつもありました。ここまでこれたのは、ロルフのお陰です」
「いや、それはおかしい――」
「いえ、本当のことです――」
声が重なり、二人は同時に口をつぐんだ。短い沈黙の後、また声が重なる。すると伯が軽く咳払いをし、二人の頭にそっと手を乗せた。
「お前たちのお陰だ。これでいいな?」
二人とも、不満げな顔をしながらもおずおずと引き下がる。伯が笑いをこらえているのが、わずかに震える口元でわかった。
♢
夜。
廊下を歩きながら、ふと気づく。この数週間まともに湯舟に浸かれておらず、手拭いで体を拭くだけの夜が続いていた。そこで温泉に行こうとふと思い立ち、着替えとタオルを小さな布袋に詰め屋敷を出る。春の夜気が、頬にひんやりと触れた。
玄関を抜けたところで、人影が見えた。ロルフだ。上着を羽織り、手に布袋を提げている。
「外出か?」
「ええ。久しぶりに温泉に入ろうと思いまして」
「奇遇だな。俺もだ」
彼は少し苦笑する。
「最近忙しさにかまけて、まともに湯舟に浸かれていなかったからな」
「私も……」
言いかけて、口をつぐんだ。
殿方の前でしばらく湯舟に浸かっていなかったなどと、口にすべきことではないだろう。それに――なんとなく匂いが気になり始め、私はそっとロルフから半歩分の距離を取った。
「いえ、私は毎日入っていたのでした」
若干声が上ずった気がしたが、視線はまっすぐロルフに向けておく。
「さっき、久しぶりと言っていなかったか」
「いえ、言っていません」
「……そうか」
興味なさげに短く返すと、ロルフは歩き出した。私もやや間を置いて後に続く。
道すがら、自分の言動を不思議に思う。王都にいた頃であれば、こんな嘘はつかなかっただろう。私も久しぶりに温泉に参ります、と素直に言えていたはずだ。匂いを気にすることもなかった。あの頃の私には、誰かとそういう距離感で関わる機会自体がなかったから。
いや、きっと王太子殿下の隣を歩く機会があったとしても、匂いにまでは気が回らなかっただろう。なら、何故彼にだけ――その疑問に結論をつける前に、ロルフが問いかけてくる。
「最近、ちゃんと寝ているのか」
「寝ていますよ。そういうロルフはどうなのですか?」
「俺も、最近はちゃんと寝てる」
「それは、よかったです」
「お互いにな」
その言葉に、なぜか二人して少し笑ってしまった。声に出すほどではない、口元だけの笑い。それでも、並んで歩く空気がほんの少し柔らかくなった。
石畳の継ぎ目を踏みながら、ロルフが続ける。
「仕事は、落ち着いたのか?」
「ええ、一時期よりは。でも、まだやることは山積みです」
前を向いたまま答える。
「飢饉が起きる前に止められる仕組みを、今度こそ作らないといけません」
ロルフが横目でこちらを見た。言葉はない。ただその視線が、あまり無理はするなよ、と静かに訴えかけていた。
その眼差しを受けて、私は小さく頷く。
「頼りにしています。ロルフ」
柔らかく微笑みながら言うと、彼の頬にわずかに朱が差した。こほん、と短い咳払いをして前を向く。
「……分かってるなら、いい」
低い声で、それだけ言った。
温泉の屋根から立ち昇る湯気が、夜空にゆっくりと溶けていくのが見える。二人で並んでそれを眺めながら、しばらく黙って歩く。言葉がなくても、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
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