17話 山場
季節は変わり、秋。
朝、窓を開けると冷えた空気が流れ込み、遠くの山の稜線が澄んだ青に溶けている。木々の葉は赤と黄に染まり、庭の枯れ草が風に揺れていた。
あの嘆願書の山が届いた夜から、どれほどの時間が経ったのだろう。
収穫量は予測通り例年の四分の一以下だったが、しかし備蓄は無事に届いた。
レイムント商会の荷馬車が城の搬入口に並んだ朝、伯は長く息を吐いた。ロルフは腕を組んで無言だったが、その目が静かに細くなるのを私は見た。私自身も、胸の奥でずっと張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
心の底から、安心する。拠り所が一つ増えただけ。なのに、緊張は和らぎ体は熱を取り戻していった。それでも翌朝、私は変わらず書面と向き合っていた。
廊下を歩きながら、目を擦る。夜明け前から机に向かっていたせいで、視界の縁がじんわり霞んでいた。足元がどこか覚束なく、石壁に手をついて歩調を保つ。
「大丈夫か?」
声がして顔を上げると、ロルフが廊下の向こうから歩いてきたところだった。私の顔を見るなり、ぎょっとした表情になっている。
「大丈夫です」
反射的に言いかけ——脳裏に、今朝の机の上が浮かんだ。書きかけの配給計画、照合待ちの帳面、届いたばかりの報告書の束。終わりの見えない紙の山。
このままでは近い内に限界を迎えてしまうだろう。そう感じた私は考えるよりも先に、口を開いていた。
「……正直、少しきついです。手伝ってもらえませんか?」
口から出た言葉に、私は少し驚く。ロルフは一瞬きょとんとした後、表情をほどいた。
「了解だ」
その声色からは、どこか嬉しそうな感情が滲んでいるように感じられる。
執務室へ向かいながら、私はその不思議な感覚を反芻していた。
王都にいた頃、弱音を口にしたことはなかった。どんなに追い詰められても、助けを求めることは選択肢の外にあり、全てを一人でこなしてきた。
なのに今、自然と助けを口にしている。グラナート領の人々を大切に思っているから——それは確かだ。しかし、それだけではない気がする。
きっと、私自身が少しずつ変わってきているのだろう。そう結論づけると、不思議と胸の奥が温かかった。
執務室に戻り、ロルフが隣の机の椅子を引いて座る。積まれた紙束を見渡し、彼は眉を上げた。
「危機は回避したはずだろ。いったい、何の仕事が残ってるんだ」
「危機はまだ乗り切っていません。むしろ、ここからが本番です」
私は答えながら、帳面を広げる。
「今は各自の備蓄が残っているから持ちこたえている状態です。それが尽きた時が、本当の山場になります」
ロルフは苦い顔をしたが、すぐに気を引き締めた目になった。
「何をすればいい」
「仕組みを作ります」
指を三本立てた。
「三つほど」
私は軽く咳払いをし、続ける。
「まず——流通網の確保」
いくら備蓄が手元にあっても、領全域に行き渡らせなければ意味がない。
「これは、レイムント商会の輸送網を使わせてもらおうと思います」
ロルフが怪訝な顔を見せる。
「奴が簡単に引き受けるとは思えないが」
「はい。ですから、先日回収した徴税官の隠し財産を使います」
あの日、ラインが交渉の最期に告げた情報——徴税官の出資先の話を伯に伝えたところ、彼は即座に動いてくれた。おかげでグラナート家にはそれなりの資金が手元に残っている。ただし今回の依頼で、その大半はレイムント商会へ流れるだろう。
ふと思う。あの頭取は、最初からここまで計算していたのだろうか。あの終わり際の助言が、結局自分への資金還流に繋がるよう仕組まれていたとしたら——計算高い、というレベルの話ではない。
思わず、体が震えた。すると、ロルフが心配そうな視線を向けてくる。私は視線だけで大丈夫だと返す。
「次に、教会への協力依頼です」
我が国の主教『アリストス教』の教会は平常時から炊き出しを行っており、非常時にはその規模が広がる。備蓄を教会に届け、炊き出しという形で人々に渡す。商会の足と教会の網を組み合わせれば、自力では届けられない場所にも食料が届く。
「最後に——」
少し間を置いた。
「優先順位を、付けます」
ロルフの眉が、わずかに寄る。
その意味を、彼もすぐに理解したのだろう。全員に均等に届けることが理想だが、物資にも時間にも限りがある。どこを先にするかを決めることは、どこかを後回しにすることでもある。
しかしロルフは短く、「分かった」と言った。
「貧しい人が密集している町から、優先的に回しましょう」
「そんなことが分かるのか」
「情報はいつだって、紙の中に転がっていますから」
私がトンと机上の紙を叩くと、ロルフが薄く笑い「そうか」と溢す。二人は目を合わせ、静かに頷いた。
「では俺は父上に、教会への要請の手紙を書いていただくよう進言してくる」
「私はレイムント商会への交渉を希望する旨を、手紙にします」
それぞれの役割を確かめ合い、二人は動き出した。
♢
諸々の準備が整い、冬が来た。市場の供給が落ち込み、外の気温が石壁を冷やし始める季節である。
飢饉の噂が広がり、騒ぎを起こす人間がわずかに現れた。それでも教会の炊き出しは続き、商会の荷馬車は止まらず、死者はゼロのまま日が経過していく。
油断はできない。私含め、グラナート領の面々は休みなく動き続けていた。
そんなある日、使用人が数通の手紙を持ってきた。どうやら近隣の領かららしい。封を開くと、どれも同じ内容だった。食料支援の要請。
読んだ瞬間、ばたばたと動き回っていた私の足が、ぱたりと止まる。
想定はしていた。あの夜、伯に「あと三年分の備蓄が必要です」と告げた時から、こうなることを思い描いていた。計算上、分けても十分余るほどの備蓄はある。
それでも——決断の重さが、体にのしかかってくる。
万が一、自分の計算が外れていたら。まだ見えていないリスクが潜んでいたら。余裕があると思っていた備蓄が、突然足りなくなったら……指先が、少し冷たくなっていた。
「どうしたのですか?」
ユリウス伯が通りかかり、こちらを覗き込んでいた。心配そうな目をしている。
私は手紙を差し出した。伯は受け取り、目を通す。
「余裕はありそうですか?」
「余裕自体はある、と思い——ます」
語尾が揺れる。もしこの飢饉で死人で出てしまったのなら、それは完全に私の責任だ。私が無実の民を殺してしまったということになる。「ある」と断言した瞬間に生まれる責任の重さに、思わず怯んでしまう。
伯は少し考えてから、傍の使用人に向かって静かに告げる。
「微力ながら支援させてもらう旨の文面を、送ってください」
「いいのですか?」
私は思わず問い返す。
「大丈夫です」
「でも、もし……」
「いざとなったら、私が身売りしてでも金を稼ぎますよ」
伯は真顔でそう言い切った。私は言葉を失い、しばらく固まる。
沈黙が、廊下に落ちた。伯は少し赤くなりながら、小さく咳払いをする。
「場を和まそうとしたのですが、すみません。忘れてください」
「あ、はい」
気を取り直すように、伯はもう一度咳払いをする。
「もしかしたら、なんて考えても仕方ありません。それよりも、今やるべきことだけを見据えなさい」
声は穏やかだが、どこか芯があるように思える。そして背中に、ぽんと手が置かれた。
「責任は私が取ります。ですからあなたは、あなたの思うように精一杯歩きなさい」
伯は微笑みながら、そう言った。胸の奥が、じんわりと熱くなる。
今まで何度も、この人の言葉に支えられてきた気がする。感謝、尊敬、安心、感情がうまく言葉にならないまま、ただ温かさだけが残る。
そうだ。未来のことを考えたって仕方がない。見据えるべきは、今この時のことだけだ。私は両手で頬をぱんと叩いた。
「ありがとうございます」
短く言い、リュシアは仕事へ戻る。その背筋は、しっかりと伸びていた。
♢
それからの日々は、もはや昼夜の区別がなかった。
配給計画の更新、各地からの報告確認、数字の照合、手紙の返答。仕事が終わるそばから次が来る。いつの間にか執務室で眠るようになり、自室に戻る時間も惜しんでいた。
ある夜机に向かったまま、意識が落ちてしまった。ペンを握ったまま、書きかけの紙の上に額を落として。
夜風が肌に触れ、思わず身震いしてしまうリュシア。寝息が浅くなる。しばらくして、何か柔らかいものが彼女の体にかけられた。それから、頭にぽんと手が置かれる。
「お疲れ様」
寝息が深くなり、震えが止まったことを確認すると、ロルフは静かに部屋を後にした。
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