16話 交渉
翌朝食堂に足を踏み入れると、いつもの朝の匂いがした。
パンの香ばしさ、ほのかに甘い牛乳の香り。ダイニングに移動すると窓から差し込む光が長く伸び、テーブルの木目を照らしている。私は自分の席に腰を下ろし、パンを口に入れた。
しばらくして椅子を引く音が響き、隣にロルフが座る。
彼は自分の分の料理を、何でもないことのように食べ始めた。私も黙って食事を続ける。二人の間に言葉はなかったが、一週間前のような張り詰めた静けさとは違う。ただ、朝の穏やかな時間がそこにあった。
「あんたの作戦に乗る」
ロルフが、不意に口を開いた。私は咄嗟に反応できず、手の中のパンを持ったまま固まる。
「……いいのですか?」
「ああ」
彼は頷き、牛乳を一口含んでから続ける。
「父上に釘を刺されたからな」
それから少し間があった。ロルフは視線を卓上に落とし、口を開きかける。
「それに、あ——」
途中で、小さく咳払いをひとつ。
「リュシアの誠意に応えたいんだ」
声に、どこか照れが滲んでいた。
「そう、ですか」
私は思わず、口元が緩んだ。一拍置いて、ロルフの方へ向き直る。
「でも、嫌だと思う時は遠慮なく言ってください。あなたの不興を買うようなことをするのは、私も嫌ですから」
真っ直ぐそう言い切ると、ロルフはわずかにむっとしたような顔になった。何か言いたそうに口を開きかけ、しかし言葉にせず——
「分かった」
短くそれだけ言い残すと、立ち上がり部屋を後にした。私は取り残される形で、パンを齧りながら首を傾げる。何か気に障るようなことを言っただろうか。
心当たりを探しながら、私は今日もまた机の上の紙に向き合った。
♢
一週間後、私とロルフはレイムント商会の門の前に立っていた。
「......大きいですね」
思わず、素直な感想が漏れる。
一介の商会の館でありながら、その規模はグラナート領の館の二倍はくだらない。外壁はすべて大理石で組まれ、光の角度によって白と灰の間で揺れている。館中にステンドグラスが嵌め込まれ、朝の光を受けて色とりどりの影を地面に落としていた。
グラナート領の館よりも、よほど領主の邸宅らしい。気圧されそうになる感覚を、私は背筋を伸ばすことで押し返した。
「すみません、約束していたグラナート家の者なのですが」
門番に声をかけると、その台詞を聞いたロルフが横でわずかに頬を緩めた。何がおかしかったのか分からないまま、私は首を傾げる。
しばらくすると、奥から一人の女性が現れた。思わず息が止まる。
国中を探してもこれほどの人はいないだろう——そう思わせる程の美貌だった。整った顔立ち、すっと通った鼻筋、落ち着いた目元。裾を優雅に持ち上げながら礼をする所作は一分の隙もなく、歩き方も、背筋の伸ばし方も、全てが洗練されている。王都の舞踏会でも、ここまでの立ち居振る舞いをできる令嬢はそう多くはいなかった。
レイムント商会の格の高さを、一人のメイドが全身で示している。
案内されながら私達は廊下を歩く。磨かれた大理石の床に、靴音が静かに響いていた。天井は高く、壁には精緻な装飾が施されている。それでも私は、歩幅を変えなかった。ここで萎縮してはいけない。
突き当りの部屋に案内され、同時に扉が開いた。瞬間、芳しい紅茶の香りと、古い紙の匂いが混じり合って鼻に届いた。
私は、自分の肩から力が少し抜けるのを感じた。紙の匂いは、いつでも私を落ち着かせてくれる。不思議なものだと思いながら、部屋へ足を踏み入れる。
「初めまして。レイムント商会の頭取を務めているラインと申します。以後、お見知りおきを」
声がした方に目を向けると——私の中で、何かが少しずれた。
頭取というからには、もっとギラギラとした目を持つ人間を想像していた。商機を嗅ぎつけ、利益を積み上げてきた者特有の油断のなさというものを。
しかし目の前にいたのは虫も殺したことのないような穏やかな瞳の、温和そうな青年だった。声は柔らかく、全身から滲み出る雰囲気は優しい。茶髪をかき上げる仕草すら、どこか気負いがない。
彼に促されるまま、私とロルフは席に腰を下ろした。ラインは紅茶を三人分机に並べ、自分も向かいに座る。
「それで、今回はどのようなご用件でいらっしゃったのですか?」
穏やかに問われ、私は口を開いた。
「実は二週間ほど前、住民たちから次々と減税の嘆願が届きまして。調査の結果、寒冷化が起きていること、そしてこのままでは大規模な飢饉が起きてしまうことが判明しました」
ラインは相槌も打たず、ただ静かに聞いている。
「そこで、レイムント商会には備蓄用の食料を用意していただきたいのです」
言い切った瞬間——ラインの瞳が、細くなった。
それまでの穏やかな色が消え、肉食獣のような眼差しが静かに現れる。温度のない、しかし鋭い目。額に、じわりと汗が滲んだ。ここからが、本番だ。
「どのくらいの量をお望みなのですか?」
声は依然として穏やかだった。しかし質問の芯には、明確な圧力がある。私は気圧されないよう必死に態度を整えながら、要求する量を伝えた。ラインは表情を変えずに聞いている。
「ご予算は、いかほど?」
私は相場の半額に相当する数字を示す。途端、ラインは顎に手を当て、考え込んだ。
すぐに交渉を打ち切らない——ということは、まだこちらのカードに期待しているのだろう。私は静かに息を整えながら、次の言葉を選んだ。
「もちろん、ただ半額で買わせろとは言いません」
ゆっくりと、抑揚に気をつけながら言葉を紡いでいく。
「グラナート領では近い内に、御用商会を選ぶ会議を予定しております」
「ええ、存じておりますが」
即座にラインは返答を返す。
そう——事前に伯に頼み、有力な商会へ向けて『近いうちに御用商会の見直し会を開く。名乗りを上げたい者はユリウスまで』という書状を届けさせてあった。当然、レイムント商会にも。
談合をする。
その言葉の重さを、私は今も感じていた。しかしここを乗り越えなければ、この領は立て直せない。私は痛みを胸の奥に沈め、言葉を続けた。
「もし今回の取引を受けていただけるなら、今回の見直し会ではレイムント商会を選ぶことにします。それだけではなく、この先少なくとも五年間は御用商会の立場を追われることはないと保証いたします」
言い終えた。達成感と不安が、胸の中で互いを打ち消し合うように渦巻く。表情には出さない。出してはいけない。
ラインは何も言わず、ただ静かに考え込んでいた。
その沈黙が、一秒のようにも、一時間のようにも感じられる。窓の外で風が鳴り、紅茶の湯気がゆっくりと消えていく。やがてラインが、顔を上げた。
「分かりました」
眉を下げ、ばつが悪そうな顔で彼は続ける。
「......申し訳ありません。今回は、ご縁がなかったということで」
心臓が、強く跳ねた。断られた。動揺が、波のように押し寄せてくる。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。私は大きく息を吸い、感情を維持する。そして表情を動かさないよう気を配りながら、声を平らにして問うた。
「理由を、お伺いしてもよろしいですか?」
ラインは少し考える素振りを見せた後、どこか気の抜けた口調で答えた。
「う〜ん。かなり悩みましたけど、今回はうちが勝つって分かっていましたから」
意味が、すぐに取れない。私が怪訝な顔をすると、ラインは穏やかな笑みを浮かべたまま問い返してくる。
「今日までに、どこかエントリーしてきましたか?」
「——いえ、まだです」
「でしょうね」
ラインは微笑を浮かべながら続ける。
「この先も、エントリーする商会は現れませんよ。ここら一帯で、うちより大きい商会はありませんから」
言葉を飲み込むのに数分、それから頭に回すにの数分。それだけ掛かってようやく言葉の意味が全て理解できた。
彼は他の商会に、既に圧力をかけていた。見直し会にどの商会も手を挙げないよう、事前に手を打っていたのだ。つまりグラナート家に選択権はなく、レイムント商会しか選べない状況を、先に作り上げていた。
私はこちらの切り札だと思っていたものが、すでに相手の掌の上にあったことを理解した。
「交渉のコツは、相手より早く対策を打つことです」
ラインの目から、穏やかな光が消える。温もりのない、合理性だけで研ぎ澄まされた目。商人の顔が、そこにある。
「商人を、舐めないでください」
血の気が引いていく。頭の中で何かが複数同時に走り、しかし一つも纏まらない。心臓が煩く鳴っている。表情だけは、何とか保ちながら——視界の輪郭が、ゆっくりとぼやけ始めた。
どうしよう。どうする。どうすればいい。思考が纏まらない。頭の中が真っ白で、一向に動いてくれない。何かを発しなければならないのに、何を言えばいいのか分からない。額に汗が滲み、体が震える。
その時、背中にぽんと手が置かれた。ロルフだった。反射的に彼の方を見ると、小声が耳に届く。
「大丈夫だ」
たった四文字。それだけなのに、渦巻いていたものが急速に収まっていく。呼吸が戻り、視界が元に戻り、頭が冷静さを取り戻していく。
ロルフは私から視線を外すと、ラインに向かって真っ直ぐ座り直す。その様子には、領を背負う者特有の威風があった。
「五年といわず、一生御用商人とする。それならどうだ」
私は驚いて、思わずロルフを見た。談合を嫌がり、言葉にならないまま部屋を出ていったロルフ。その彼が、誰より大きく踏み込んでいる。
「それは、あなたの在籍期間ということですか?」
ラインが確認する。
「そうだ。正確にいうなら、父上と俺の在籍期間だな」
ロルフは淡々と答えた。ラインはまた考え込む。しかしその沈黙はさらなる条件の追加により敗れることになった。
「加えて、五年程度なら税を減額してやってもいい」
ラインの表情が、一瞬で変わった。
「取引成立です」
笑顔のまま手を差し出してくる。その速さに、私は思わず目を瞬かせた。ロルフは大きく息を吐くと、その手を握り返す。
私があまりの驚きに身じろぎせず止まっていると、ラインが「あ、すみません」と言いながら首を傾げた。
「う~ん。やはりこのままだと、釣り合いが取れませんね」
「何を考えている」
ロルフが怪訝な目を向ける。
「これからは長いお付き合いになりますから。フェアにいきたいんです。他に何か要望があるなら、出来る限り協力しますよ」
ラインは穏やかに言い、私とロルフを交互に見た。ロルフが視線で私を促す——何かあるなら言ってやれ、という意味だと受け取り、私は先ほどまでの失態を隅に追いやりながら口を開いた。
「では、農具の買い替えを融通してください」
「分かりました」
即答だった。先ほどまでの問答は何だったのかと思える程に。私は一度息を吸い、続ける。
「あと——今回だけでいいので、もし他の領から備蓄の注文が入ったら、少し安く売ってあげてください」
ラインが、目を瞬かせた。
それまでの計算高い商人の顔が、一瞬だけ崩れる。そして自嘲気味な笑みが口元に浮かべ、申し訳なさそうな表情で、ゆっくりと手を差し出す。
「分かりました。あなたの要望は全て叶えると、僕が保証致します」
私はそれを握り返した。握手をしながら、ラインが思い出したように口を開く。
「そういえば——徴税官殿はいくつかの商会に出資をしていたようですよ。屋敷を探せば、契約内容を書いた羊皮紙が見つかるかもしれません」
私とロルフは、顔を見合わせる。そんな発想、思いもしなかった。ラインはそんな二人を面白そうに眺め、静かに立ち上がると優雅に一礼した。
「今後とも、レイムント商会をよろしくお願いしますね」
♢
帰り道、二人はしばらく無言だった。
大通りの石畳が夕陽に染まり、人々の影が長く伸びている。荷馬車の音、子供の笑い声、売り子の呼び声——街の喧騒が、遠い水音のように耳に届いていた。
私は歩きながら、頭の中でラインの行動を反芻していた。
彼ならわざわざ知らせずとも、グラナート家に先んじて投資利益を取れたはず。しかしそれをしなかった。なぜか。答えは、じきに形を成した。それ以上の利益が出る見込みがあったから。
もしかしたら、彼は飢饉の危機をどこからか聞いていたのかもしれない。だから、グラナート家が接触してくると判断し、信頼を損ねるような行動を控えた。おそらく、私達が何らかの利益を持ち込んでくると思ったのだろう。私の提案が跳ねのけられたのは、投資利益を下回ったから。しかし、次のロルフの提案がそれを覆した。最後に伝えたのは、信頼と恩を売った方がいいと判断したのだろう。
――敵に回したくない。私は心の底から、そう思った。
「ロルフ」
私は立ち止まり、隣を歩く彼に向かって頭を下げた。
「今回は、本当に助かりました。ありがとうございます」
きっとロルフがいなかったら、あのまま何も言えずに逃げ帰ってしまっていただろう。領も、人々も、私の果たすべき役目は何一つ達成できなかった。それに、もうダメだと絶望に打ちひしがれた空間をロルフは打ち破ってくれた。それだけで、感謝してもしきれない。
「頭を上げてくれ」
ロルフの声には、照れと困惑が混じっていた。
「俺だけでは、交渉しようとも思わなかっただろうし、きっと成功もしなかった。これは、俺だけでもリュシアだけでも叶わなかった——二人の勝利だ」
顔を上げると、ロルフがわずかに微笑みながら掌を突き出していた。私は少し照れながら、同じように掌を合わせる。
街の喧騒が、二人の間を流れていく。
脳内に、いくつかの場面が映し出される。野盗に囲まれ、首を締め上げられた路地。あの時真っ先に現れたのも、この人だった。行き詰まっていた時に街へ連れ出してくれたのも。そして今日、背中に手を置いて「大丈夫だ」と囁いてくれたのも。
「でも、やっぱりきちんとお礼がしたいです」
私がそう言うと、ロルフは腕を組み、しばし考え込んだ。困ったような、どこか間の抜けたような顔をしている。
「じゃあ——名前で呼ぶようにしてくれ」
「え」
私は思わず固まった。
色々な要望を想定していた。何か贈り物を、あるいは今度の食事を、といった類のものを。しかしそのどれでもなく、名前で呼ぶこと——私は思わず、笑い声を漏らしてしまう。
「っ、すみません」
「何がおかしい」
ロルフがむっとした顔になる。
「あまりに予想外の頼みでしたので」
私は口元を手で押さえながら、何とか笑いを収めようとした。そしてひとしきり笑った後、大きく息を吸う。
「改めて、ありがとうございました——ロルフ」
名前を呼んだ瞬間、ロルフは何も言わず、すっと前を向いて歩き出した。
「え、ちょっと——」
返事もなく、どんどん距離が開いていく。私は小走りで追いかけながら、その背中を眺めた。
少し、不満だ。せめて何か一言くらい返してくれてもいいのではないか。
しかし夕陽を受けて、ロルフの耳が赤く染まっているのが見える。私は小さく息を吐き、そっと口元を緩めた。きっとあれは、夕日のせいだけではないだろう。
二人の影が、石畳の上で並んで伸びている。夕陽はまだ沈みきらず、街を金色に照らし続けていた。
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