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15話 仲直り

 あれから一週間。ロルフとは廊下ですれ違っても視線は合わず、食卓を共にしても会話は生まれない。彼がいる空間に自分もいるのに、その距離は縮まらないまま、ただ時間だけが経過していった。


 仕事は、変わらずこなしている。帳簿に向かい、数字を追い、ハインリヒやレイトと言葉を交わす。それなのに、胸の奥に何かが引っかかったまま取れない。


 私はその感覚に、戸惑っていた。

 これまで、拒絶されることは珍しくなかった。王都の頃から、他の令嬢には疎まれ、意見を言えば煙たがられた。婚約を破棄されても、私は数字を頭の中で唱えることで心を凪にできた。一人でいることには慣れていたはず。むしろ、一人の方が物事はうまく進むとさえ思っていた。


 なのに今は——誰かがそばにいないことが、こんなにも痛い。

 ロルフと並んで帳簿を見ていた夜のことを、ふと思い出す。街で果実を食べた昼のことも。剣だこの刻まれた手。「俺も見る」と言った、あの短い言葉。

 一人でいることに慣れていたはずの私が、誰かと歩くことの温かさを知ってしまった。それがこんなにも難しいものだということも。どうすれば仲直りができるのか、私には分からなかった。


 その夜、伯の部屋に呼ばれた。扉の前に立ち、一度深く息を吸う。ノックをすると、「どうぞ」という穏やかな声が返ってきた。


「失礼いたします」


 部屋に入ると、伯は窓際の椅子に座っていた。蝋燭が一本、卓上で静かに燃えている。伯の顔に落ちる光は柔らかく、いつもの穏やかな表情が夜の空気に溶け込んでいた。


「どうぞ、座ってください」


 促されるまま、向かいの椅子に腰を下ろす。伯はそのまま立ち上がり、ポッドから何かを注いで、私の前に置いた。白い湯気が細く立ちのぼる。

 温めた牛乳みたいだ。温かい匂いが、鼻先に届く。


「ロルフが小さい頃は、よく飲ませたものです」


 伯は目を細め、懐かしむように笑った。私は両手でカップを包みながら口に運ぶと、伯の瞳を真っ直ぐに見て頭を下げる。


「申し訳ありませんでした」


 伯はすぐには答えない。ただ、私の顔をしばらく見ている。


「でも、領のことを想っての発言だったのでしょう?」


 優しい声音だった。責めるのではなく、ただ確かめるように問うている。


「それは......そうです」


 私は視線を落とした。


「でも、もっとロルフの気持ちを考えるべきでした。ちゃんと話し合った上で、決めるべきだった」


 自分なりの最善を尽くしたという感覚があった。あの夜、私が提案した策は間違っていないと今でも思っている。しかし——きちんとロルフの気持ちに目を向けていれば、あの提案の仕方は変わっていたかもしれない。もしかしたら、もっと別の策が生まれていたかもしれない。

 誰かと歩くことは、心地よい。しかしその分、難しくてひどく脆い。一人で判断するより時間がかかるし、思わぬところで躓く。ちょっとしたことで、簡単に亀裂が生まれてしまう。

 それでも、と私は思う。この一週間の静寂より、ずっとましだ。


 すると伯が、ふっと笑った。声はなく、ただ目元に皺が寄り、口元がほどけている。


「……?」


 私が視線で問うと、伯は小さく首を振った。


「すみません。子供の成長は、いつ見ても感慨深いものだなと感じたものですから」


 伯の言葉の意味は分からない。それでも、親愛を感じてくれているのだということは分かった。

 伯は続ける。声は静かで、しかしはっきりと。


「あなたの抱えているその気持ちは、悪いものではありません。誰でも通る道であり、私もしょっちゅう直面しています」


 卓上の蝋燭が、ふっと揺れる。


「でもこれだけは、覚えていてください」


 伯は私を真っ直ぐに見た。


「誰かのことで悩めるということは、あなたが優しいということの何よりの証左です。どうか、そのことを忘れずに」


 胸の奥が、じんと熱くなった。

 言葉が出てこない。カップを握ったまま、私はただ伯の顔を見ていた。長い間、誰かにそんな言葉をかけてもらったことはなかった——いや、そもそもこういう感情を「優しさ」だと言ってもらえるとは思っていなかった。

 冷たい、可愛げがない、感情がない。そういう言葉を、これまでにたくさん受け取ってきた。だから強く在ろうと決めた。誰の言葉にも揺らがないような、そんな強さを得ようと。しかし悩めることが優しさの証なのだと、この人は言う。


「……ありがとうございます」


 声が、わずかに震えた。


 伯は何も言わず、ただ頷く。その目には、長く人を見てきた者だけが持つ温かさがあった。やがて伯は小さく息を吐き、少しだけ表情を緩める。


「ロルフには、私から言っておきましょう」


 それから、どこかぶっきらぼうに付け足すように言う。


「正直、私はリュシア殿の作戦に賛成なのです。あれ以上の策は出ないでしょうから」


 私は少し驚いて、顔を上げる。伯は腕を組み、どこか呆れたような表情で天井を仰いだ。


「あいつには、領主としてもっと清濁併せ持つ覚悟をしろと常々言っているんだがなぁ……」


 独り言のような呟きだったが、その中には親としての苦労が滲んでいた。


「ともかく、あいつにはもっと柔軟になれと言っておきます」


「——その伝言、私の方から伝えさせてもらえませんか」


 口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。しかし、後悔はない。伯は一瞬目を瞬かせ、しかしすぐに首肯する。


「分かりました。では——『まだ好悪に囚われるようなら、お前を家から追放する』とお伝えください」


 私は思わず固まった。


「……もっと、優しい言い方にした方がいいのではないですか」


「あいつもあいつで頑固ですからね。これくらいの方がいいのですよ」


 伯は静かにそう言い切った。その顔には、息子に対する期待と信頼が現れている。私は小さく息を吸い、頷いた。



 ♢



 ロルフの部屋の扉の前に立つと、廊下の冷たさがいつもより鮮明に感じられた。そしてこんこん、と二度叩く。


「どうぞ」


 返ってきた声は、いつも通りのロルフの声だった。しかし扉を開け、私が入ってきたのだと気づいた瞬間——彼の目が、すっと横へ逸れる。


 私は大きく息を吸った。


「ユリウス伯より、伝言を預かってきました」


 ロルフは視線を向けないまま、黙って聞いている。


「『まだ好悪に囚われるようなら、お前を家から追放する』——だそうです」


 一拍の沈黙。

 それからロルフは、ゆっくりと私に視線を戻した。目が丸くなり、次の瞬間には自嘲するような笑みが口元に浮かぶ。


「……厳しいな」


 小さく呟く彼を横目に、私は頭を下げる。


「私の不用意な発言で、あなたを傷つけてしまいました。……ごめんなさい」


 難しい顔をするロルフ。腕を組みながらしばらく悩んだ後、大きく息を吐きながら声を掛ける。


「顔を上げてくれ」


 言われるまま顔を上げると、彼は申し訳なさと気まずさが入り混じったような表情をしていた。それからさらに時間を置いた後彼は頬を人差し指でぽりぽりと掻き、やがて口を開いた。


「……俺がショックを受けたのは、あんたに対してじゃなく、俺自身に対してなんだ」


「えっ」


「あの時拒絶した一番の理由は、談合が道理に反していると感じたからじゃない」


 言葉が、ゆっくりと続く。


「ただ、不正に関わっていたあの商会が気に入らなかった。それだけだ。そしてそんなことで断ってしまう、俺の器の小ささに心底嫌気が差した」


 ロルフは深く息を吐き、頭を下げる。


「一方的に気まずさを覚え、距離を置いていた。すまない」


 部屋に、静寂が落ちる。

 私は、自分の中で何かがほどけていくのを感じた。嫌われたのではなかった。責められていたのではなかった。胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりと溶けていく。


「良かったです」


 声になる前に、言葉が漏れていた。小さな呟きだったが、部屋の静かさの中ではっきりと届いた。


 ロルフが顔を上げる。その頬が、わずかに赤みを帯びていた。彼は誤魔化すように小さく咳払いをすると、口を開いた。


「許された、ということでいいのか?」


 私は頷いた。


「ええ。明日からは元通り、です」


 ロルフの顔から、力が抜けた。安堵が、ゆっくりと表情に広がっていく。


「じゃあ、また明日。リュシア」


 手を軽く上げる。その動作は、どこかぎこちなくて、しかしとても自然なように感じる。


「はい。また明日、ロルフ」


 私も手を振り返し、部屋を後にした。


 廊下に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。燭台の火が揺れ、石壁に影が伸びる。

 けれそも胸の奥はとても温かかった。さっきまで引っかかっていたものが、すっかりなくなっている。こんなにも単純なことだったのかと、少し拍子抜けするような気持ちになる。


 廊下を曲がり、自室へと続く石畳を踏む。遠くで風が鳴っている。城の隙間を抜ける、いつもの乾いた音。私は小さく息を吸い、静かに吐いた。明日から、また頑張ろう。



 ♢



 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。やがて完全に聞こえなくなった頃、ロルフは壁にもたれ、天井を仰ぐ。

 こらえようとした彼の口角が——静かに、ほんの少しだけ、持ち上がっていた。



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