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14話 決裂

 夜の広間に、三人の影が揺れていた。蝋燭の灯りが卓上に溜まり、石壁の古びた時計が秒を刻んでいる。その音だけが、部屋の重さを測るように規則的に響いていた。

 窓の外は暗い。雲が月を覆い、星の光すら届かない夜だった。


「リュシア殿、必要になる備蓄量は分かりましたか?」


 伯が静かに問いかける。いつもの穏やかな声音だが、その目には憂慮の色が宿っていた。


「はい。おそらくグラナート領、約五年分の税収に相当する量が必要になると思われます」


 言い切った瞬間、ロルフが低く息を吐いた。


「……五年分、か」


 呟きは、石壁に吸い込まれるように消えていく。彼は腕を組んだまま、深く俯いた。その横顔に刻まれた苦さは、数字の重さをよく知っている者のそれだ。

 伯はしばらく沈黙した後、静かに問う。


「それは、家の財産と先の一件で押収した財宝、海外口座の資金を合わせれば揃えられると思いますか」


「父上、それは——」


 ロルフが口を開いた。だが、言葉の続きを見つけられないまま、唇を閉じる。


 私は横目で彼の様子を確かめた。眉根が寄り、拳が膝の上でわずかに固まっている。

 苦言を呈するのも無理はない。あの資金は、徴税官が長年かけて私腹を肥やした不正金だ。所有権は今やグラナート家にあるとはいえ、それに手をつけることへの抵抗は正当なものだと思う。

 だが、今はそんなことに構っている場合じゃない。


「正直に申しますと、足りません」


 私は答えた。伯の目が、静かに細くなる。


「では、あとどのくらいの備蓄が必要になりますか?」


 その問いを受けた瞬間、私の思考が一瞬だけ止まった。

 伯が示した金額で買えるのは三年分、つまり必要になる残りの備蓄量はグラナート領の二年分の税収。計算上、それが現実的な数字だった。

 だが——脳裏に、ある問いが浮かぶ。この寒冷化は、グラナート領だけで起きているのだろうか。

 答えは、分かりきっている。......否だ。気候は領境など関係なく動く。隣の領でも、その隣の領でも、同じように農作物が育たない農家があるはずだ。同じように、飢えに直面した人々がいる。

 もし余裕のある備蓄を用意できたなら——余った分を、他の領にも渡せるのではないか。思考は一瞬で完結した。


「三年分の税収分が、必要です」


 言葉は、口から勝手に出ていた。

 言い終えた瞬間、自分の舌が嘘をついたことを、私は理解した。自然と視線が下がる。胸の内側に、冷たくて鈍い痛みが広がっていく。計算上の必要量は二年分だ。私が口にした三年分は、他の領への転用を見越した数字であり、この場で説明すべき理由を持っていない。

 それにたとえ理由があっての嘘だとしても、この二人に対して偽りの数字を告げた。その事実は変わらない。


 伯は少し困ったような笑顔を浮かべた。目元の皺が、優しく深くなる。


「何か、策はありますか?」


 その声は責めていなかった。ただ、静かに問うている。

 私は目を合わせられないまま、唇を引き結ぶ。上擦りそうになる声を、息を一度深く吸うことで押さえ込んだ。


「——レイムント商会を使います」


「ほう」


 伯の目が、わずかに動く。


「この商会に、二年分の料金で五年分の備蓄を売ってほしいと交渉するのです」


 私はちくりとした痛みに耐えながら、そう嘯いた。本当は三年分の料金で、六年分を買う。


「しかし」と伯は眉を寄せた。「向こうも商売だ。そんな要求、受け入れられないでしょう」


「だから、少し——裏道を使います」


 私は息を落ち着かせ、ようやく伯に視線を向けた。


「グラナート家の御用商人は、レイムント商会ですね?」


「そうですが......」


 伯は答えながら、何を言いたいのか測りかねている表情をしている。


「御用商人は何年かに一度、見直す機会があるはずです」


「……そう、ですね。確かにあります」


「では近いうちに、御用商人を見直す会を開きましょう。それを商人たちの間に広く知らせます。御用商人の肩書を求めて、少なくない申し込みが集まるはずです」


 私は言葉を一つずつ丁寧に置いていった。抑揚が崩れないよう、感情が声に滲まないよう、注意しながら。


「そこで、レイムント商会を選ぶ——という筋書きを事前に用意すると、彼らに持ちかけるのです。場合によってはこれからしばらくの間、御用商人の座を維持すると確約してもよいかもしれません」


 伯の目が、じっと私を見ている。


「レイムント商会がここまで大きくなれたのは、御用商人という肩書の力が大きいです。だからこそ、その肩書は十分な交渉材料になります」


 言い切った後、広間に静寂が落ちた。


「……談合、しかもレイムント商会と」


 伯が低く呟く。その声には、明確な感情がなかった。怒りでも困惑でもなく、ただ言葉の意味を確かめるように繰り返している。


「談合、そして徴税官の中抜き先と取引することへの苦さは、私にも分かります」


 私は続けた。


「しかし泥を飲み込んででも達成しなければならないことが、あるはずです」


 伯は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。目線が卓上に落ち、長い沈黙が部屋を満たす。口を開きかけた、その時。


「認め......られない」


 ロルフの声が、部屋に落ちた。低く、かすれている。感情が溢れ出る直前の、ぎりぎりで抑え込んだような声。

 私は思わず彼を見た。ロルフは唇を開いては閉じ、また開きかけ——言葉が空気に滲んで消えていく、その繰り返しを何度も続けていた。怒りなのか、悲しみなのか、その区別すら私には分からなかった。ただ、傷ついているのだということは分かる。やがて彼は短く言った。


「——悪い」


 立ち上がり、そのまま扉へと向かう。足音が石畳に落ちる。そして廊下の静寂が、広間に流れ込んできた。


 伯は目を閉じ、長く息を吐いた。その吐息に滲んでいたのは疲労か、それとも別の何かか。


「……今夜は、ここまでにしましょう」


 伯の声は穏やかだったが、どこか遠い。私は形式上の礼をし、部屋を後にした。


 廊下は暗く、静かだった。燭台の火が揺れ、影が壁を這う。

 自室への道を歩きながら、私は胸の内側を確かめるように息を吸った。重い。具体的な言葉が浮かばないほど、ただただ重かった。


 談合を持ちかけたこと。徴税官が不正に関わっていた商会との取引を提案したこと。数字を偽ったこと。そして何より、彼を傷つけてしまった。そう思うと、喉の奥が締まった。


 自室に戻り、蝋燭に火を灯す。部屋は静かだった。王都にいた頃の広い部屋とは違う、質素な石造りの空間。しかし今は、その狭さが少しだけ有難い。


 ベッドに横になり、目を閉じる。だがどれだけ時間が経とうとも、眠りの気配は訪れない。やがて瞼の裏に、ロルフが口を開いては閉じていた姿が浮かんでくる。

「認められない」その一言に、何が詰まっていたのだろう。談合への拒否か。不正商会との取引への反発か。それとも、私そのものへの——そう考えると、胸の奥が僅かに痛んだ。


 解決策は出した。方向性はある。明日になれば、また動き出せるはず。だが今夜は——うまく、心が前を向かない。

 そうして何度も寝返りを打ちながら、思考が薄れていくのをただ待ち続けた。気がつくと、窓の外が白み始めていた。夜明けの光が、薄く石壁を照らしている。

 眠れたのか、眠れなかったのか、自分でも分からないまま——新しい朝が来た。



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