13話 前触れ
とある朝。窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。もうすぐ夏だというのに、肌寒い。ここのところ、こんな日が続いている。
私はなんだか嫌な予感がしていた。理由は分からない。ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったような、ざらついた感覚があった。
執務室へ向かうと、石畳の冷たさが靴底を通して伝わってきた。
机の方に視線を向けると、見慣れない紙の束が積まれていた。羊皮紙らしきものに封蝋が押されている。一枚手に取り、開く。『減税の嘆願』その文字が、目に飛び込んできた。心臓が、一拍強く跳ねる。
次の紙も開く。また次も。全て、同じ内容だった。減税を求める声。住民の半分以上から寄せられている――
「何が、起こっているの……」
小さく呟く。
嫌な予感が、現実になった。私はすぐに調査を開始しようと、レイトを呼び指示を出す。
「減税を訴えてくる人たちに、話を聞いてきてください。何が起きているのか、詳細を知りたいです」
「分かりました」
レイトが部屋を出ていく。
私は嘆願書を並べ、共通点を探し始めた。名前、住所、職業――一つずつ、紙に書き出していく。そして、とある事実に気づく。
「農家……」
思わず呟く。減税を訴えてきた人たちは、全員が農家だった。
次に、要望通り減税した場合の税収を計算する。数字を並べ、差し引き、予測を立てる。その結果を見た瞬間、息が止まった。――かなりの餓死者が出る。
紙に書かれた数字が、冷たく私を見つめている。動揺が、胸の奥から湧き上がってくる。息が浅くなり、指先が震える。
「落ち着いて……」
そう自分に言い聞かせ、深く息を吸い、吐く。今は対策を考えなければ。
是正措置に思考を割こうとしたその時、ノックの音が響いた。
「失礼します」
肩で息をしながら、レイトが戻ってきた。急いで帰ってきたのだろう。
「住民に話を聞いてきました」
彼は報告を始める。
「今年は例年より寒冷化しており、農作物が上手く育たない可能性があるとのことです」
言葉が、胸に刺さる。
「実際、収穫前の今の段階でも、畑まるごとダメになった農家もいるそうです」
私は立ち上がった。
「ハインリヒさん、伯にこの緊急事態を伝えてください」
「承知いたしました」
ハインリヒが急いで部屋を出ていく。
私はレイトに向き直った。
「戻ってきたばかりで申し訳ないのですが、調査を手伝ってもらえませんか?」
「何の調査でしょう?」
「過去に似たような事態があったか調べて、今回の被害規模を予測します」
レイトは頷いた。
「分かりました」
私たちはさっそく調べ始めた。古い記録。気温の変動。収穫量の推移。過去の災害記録。紙を広げ、数字を追い、照合する。時間が経つのも忘れ、ただひたすらに紙に向き合う。
「このままだと――飢饉が起きる」
♢
夜。
伯は緊急会議を開いた。広間には、伯とロルフ、そして私。三人だけが集まっている。蝋燭の灯りが揺れ、影が壁に踊る。
最初に、伯が口を開いた。
「改めて、説明をお願いできますか?」
私は頷く。
「今朝、多くの住民から減税の嘆願書が届きました」
ロルフが怪訝な顔をする。
「うちは、そんなにバカげた税率ではないと思うが?」
私は頷きで、首肯を示す。
「原因は、寒冷化です」
その言葉に、伯とロルフの顔が曇る。
二人とも、この一言で察したようだった。さすがだと感心すると同時に王都の貴族なら、全く分からなかっただろうなと思う。
「寒冷化の影響で、農作物の発育に影響が出ています」
私は続ける。
「最悪の場合、飢饉が起きます。被害規模は全人口の一割に相当するかと」
ロルフは苦い顔で呟いた。
「……一割か」
重い沈黙が落ちる。
「何か根拠はあるのですか?」
静かに伯は問う。
「過去の記録に、現在の寒冷化と同じような状況が記されていました。その時の被害状況から推測しました」
私は俯く。
「なので、絶対とは言い切れませんが……」
自信なさげな声。だが――私は顔を上げ、言い切る。
「でも、最悪の状況を想定する必要があると思います」
その言葉に、ロルフは柔らかな笑みを浮かべながら力強く頷いた。
「そうだな」
伯は顎に手を当てしばらく考え込んでいたが、やがて、手をパンと叩く。
「では、こうしよう」
伯の声が、部屋に響く。
「各自、明日までに解決策を考えてくること」
そして私に手招きをした。
「リュシア殿は、過去の災害を基に必要になるであろう備蓄量を調べてもらえますか?」
「分かりました」
不正の次は災害。しかも、備蓄が空という最悪の状態で起きてしまった。だけど、俯いている暇はない。急いで対策を考えないと。
会議が終わり、私とロルフは廊下で一緒になる。
「大変なことになったな」
ロルフが呟く。
「そうですね」
私は前を向きながら答えた。
「ですが、やることは変わりません」
言葉に、力を込める。
「この領のために、そして平穏に暮らす人々のため――何としても解決してみせます」
硬い意志を込めて言い切った。横目で見ると、ロルフが柔らかな笑みを浮かべている。
「そうだな」
小さく、でも温かく、そう呟く。
二人で並んで歩いていた。
廊下は冷たく、足音だけが響いている。だが――心はまだ、折れていない。
自室に戻り、机に向かう。蝋燭を灯し、紙を広げる。過去の記録。必要な食糧量。備蓄の状況。私はペンを走らせ続けた。時間が経つのも忘れ、ただひたすらに一つずつ計算していく。窓の外は暗い。星が瞬いている。
しばらくの時が流れた後、私はペンを置いた。これで、必要な備蓄量は計算し終えた。あとは、どう調達するか。
――必ず、解決策を見つけてみせる。そう心に誓いながら、私はさらに思考を加速させる。
蝋燭の火が小さくなり、やがて消えかける。新しい蝋燭に火を移し、また続ける。数字が並ぶ。計算が積み重なる。そして――ある可能性が、浮かび上がってきた。
「これなら……」
まだ確証はない。だが、確かに一筋の光が見えた気がした。私はその草案を紙にまとめ始める。詳細な計算。必要な物資。説得材料。全てを、丁寧に書き出していく。
私は最後の一文を書き終え、ペンを置いた。疲労が一気に押し寄せてくる。だが――やり遂げた。
「これで……」
机に突っ伏し、目を閉じる。ほんの少しだけ、休もう――そう思った瞬間、意識が遠のいていった。
朝日が、部屋を照らし始めている。新しい一日が、始まろうとしていた。
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