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2話 疑惑

 夜の城は、昼よりも広く感じられた。

 廊下を歩くと、石壁の冷えが足裏から伝わる。燭台の火が揺れ、その影が長く伸びるたびに、城の傷がはっきり見えた。壁のひび、剥がれかけた漆喰(しっくい)、踏み慣らされて角の丸くなった床石。


 ――維持費が足りていない。

 それは美観の問題ではない。修繕を後回しにする領地は、必ずどこかで崩れる。


 執務室に入ると、既に人が揃っていた。領主ユリウス伯。その隣にロルフ。そして、3人の役人。

 机の上には分厚い帳簿が積まれている。


「お待たせしました、エーベルハルト嬢」


 最も年嵩の男が言った。鼻梁(びりょう)の高い、細身の男。袖口に金糸の刺繍。――徴税官だろう。


「帳簿を用意いたしました。ですが、突然の閲覧とは、少々不躾では」


 声音は柔らかい。だが、目が笑っていない。


「急で申し訳ありません」


 私は椅子に座らず、立ったまま帳簿に手を置いた。


「倉庫が空でしたので」


 一瞬、空気が止まる。

 徴税官は小さく肩をすくめた。


「昨年は厳冬でしたから、備蓄を放出したのです。民を守るために」


「素晴らしい判断です」


 私は即座に肯定した。


「ですから、その記録を確認したいのです。配給対象、数量、時期、補助金の入金日と出金日。整合性を見れば、次の対策が立てられます」


 私はちらりとロルフを見る。――責めていない、と伝わっただろうか。


 私は最上段の帳簿を開いた。

 備蓄量に関する記述は現場と相違ない。しかし、それでは王都の帳簿と食い違う。


「……こちらの記録は、どなたが」


「私が監督しております」


 徴税官が答える。


 私はページをめくる。

 税収は横ばい。だが歳出額が急増している。


「支出が、3年で2倍になっていますね」


「道が荒れており、輸送費が嵩みまして」


「税収は横ばいのようですが」


 沈黙。


 税収が増えたのなら、その理屈も分かる。しかし現実は違う。


 後ろの若い役人が咳払いをした。


「山賊の影響もあります。護衛費が嵩みました」


「護衛費の内訳を」


「……詳細は別紙に」


「その別紙を」


「……あいにく今は紛失しております」


 部屋の空気が、ゆっくりと冷える。


 私は椅子に腰を下ろした。ページをめくる指先に、紙のざらつきが残る。


 目は数字を追うが、頭は流れを見る。王都からの補助金。その入金日と出金日。

 補助金が入った3日後、大口の支払い。

 相手は――


「この商会は?」


「王都の御用商会です」


「何を購入したのですか」


「……備蓄用穀物」


 私はゆっくり顔を上げた。


「帳簿上では、購入した備蓄はとても切れる量ではないように思われます。しかし、倉庫は空でした」


 徴税官の喉が動く。


「輸送中の損失が――」


「損失率はどれほど?」


 答えない。

 私は指で数字をなぞる。


「輸送費増加。護衛費増加。損失率不明。ですが、収穫量は例年並み」


 ロルフが低く言う。


「つまり?」


 私は静かに言った。


「どこかで、()()()()()()


 言葉は石のように落ちた。

 若い役人が声を荒げる。


「無礼だ! 我々を疑うのか!」


「疑ってはいません」


 私は視線を逸らさない。


「確認しているだけです」


 徴税官が手を広げた。


「帳簿に不備はございません。王都監査も通っております」


 その言葉に、私の胸の奥で何かが確信に変わる。――王都。

 王城で見た、あの財務長官の笑み。そして、王都と現場で食い違う備蓄量。


「王都監査は、いつ来ましたか」


「半年前です」


「その際の指摘事項は」


「特に問題なしと」


 備蓄なしで通るはずがない。だが王都は実際に見逃し、第三者に見られてもいいよう公的な書類には嘘の備蓄量を記載した。


 私は一度、帳簿を閉じる。部屋の静寂が重い。


「伯」


 領主を見る。


「補助金は、王都から直接この領地に入りますか」


 伯は少し困った顔をする。


「……形式上は。しかし、実務は彼らに任せています」


 彼ら。徴税官たち。

 私は深く息を吸った。


「今後、補助金の入出金は私が確認します」


 空気が張り詰める。


「それは越権です!」


 若い役人が叫ぶ。


「私は領政補佐として任命されています。財政は領政の根幹です」


 声は穏やかに。だが退かない。

 ロルフがゆっくり言った。


「……やらせてみよう」


 役人たちが一斉に彼を見る。


「ロルフ様!」


「父上?」


 伯はしばらく沈黙した後、頷いた。


「……3ヶ月。3ヶ月、エーベルハルト嬢に財政を任せる」


 徴税官の目が細くなる。


「責任はお取りいただけるのですね」


「もちろんです」


 私は答えた。


「数字が改善しなければ、私が退きます」


 自分の声が、妙に澄んで聞こえた。賭けだ。だが、退路がないことは悪くない。


 役人たちは形式的に礼をして退室した。扉が閉まった瞬間、空気が軽くなる。

 ロルフが私を見た。


「……本当に、消えているのか」


「ええ」


「証拠は」


「まだ」


 私は立ち上がる。


「ですが、流れは読めます。王都の商会。監査済み。輸送費増大。損失率曖昧」


 ロルフは拳を握った。


「つまり、王都と繋がっていると?」


「可能性が高いです」


 伯が低く唸る。


「王都と事を構える気ですか」


 私は首を横に振る。


「構えません。あくまで証拠を集めるだけです」


 机の上の帳簿を軽く叩く。


「帳簿は嘘をつきません。嘘をつくのは、人です」


 ロルフの視線が、さっきよりも真っ直ぐになる。


「……あんたは、怖くないのか」


 私は少し考えた。怖いか。

 王都を敵に回すこと。この領地で孤立すること。再び切り捨てられること。


「怖いです」


 正直に言う。


「ですが、怖いまま放置すると、もっと大きなものが壊れます」


 沈黙。

 そして、ロルフがゆっくり息を吐いた。


「分かった。俺も見よう」


「何をですか?」


「帳簿だ」


 彼は椅子を引き、私の隣に座る。


「一緒にやる。疑うなら、俺も疑う」


 胸の奥が、わずかに温かくなる。


「ありがとうございます」


 私はページを開いた。灯りの下で数字が並ぶ。ここから始めよう。止血。可視化。そして、入れ替えを。

 私は新しい紙を取り出した。


「まず、収支の一覧を作り直します。5年分。差異を洗い出します」


 ロルフが小さく笑った。


「地味だな」


「革命は地味です」


 外で風が鳴る。城はまだ傾いていない。だが、土台はひび割れている。


 私はペンを走らせながら思う。――この帳簿の向こうにいる“誰か”は、まだ私を侮っている。

 その侮りが、いずれ命取りになる。


 静かな夜だった。

 だが、確実に何かが動き始めていた。



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