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1話 追放、そして辺境へ

 大広間の空気は、甘い香りと熱でねっとりしていた。祝宴のために焚かれた香炉の煙が、天井の梁に薄い雲を作っている。

 私はその雲を見上げながら、指先だけを静かに組み直した。手袋越しでも、掌に汗が滲むのが分かる。

 ――緊張ではない。胸の内側に、氷を落とされたみたいな予感があった。


「公爵令嬢リュシア・エーベルハルト」


 王太子殿下――レオニスは、壇上から一歩前に出た。きらびやかな服装、そして輝く金髪は彼の若さと地位を何倍にも見せる。いつもなら、その背に寄り添うのが私の役目だった。

 けれど今日は決められた距離のまま、私は一人で立っている。


「本日をもって、君との婚約を破棄する」


 一瞬、大広間が音を失った。次に来るのは、さざめき。波が寄せては返すように、人の声が広がり、私の耳の奥を撫でた。


「理由は明白。君は王妃としての資質に欠ける。民を思う心もなければ、私を支えるという覚悟もない」


 淡々と並べられる言葉は、刃というより帳簿の項目みたいだった。冷たい、可愛げがない、笑わない、政務ばかり、他者の痛みが分からない。誰かが用意した台本を、彼はただ読み上げている。そう思った。


 私は深く息を吸う。香の甘さが肺に溜まり、吐き出すときに喉が少し痛んだ。


「......承知いたしました、殿下」


 言葉は思った以上に滑らかに出た。私は膝を折り、礼をする。王太子の目が一瞬揺れた。

 驚きだろう。泣いてすがるか、怒鳴って抗議するか――そのどちらかを期待していたのかもしれない。


「反論はないのか」


「ございません。私の役目は、国を守ることです。殿下のお心がそう定まったのなら、私はそれに従います」


 会場がざわつく。「従います?」と小さく笑う声。あるいは、「強がり」と囁く声。

 私は聞こえないふりをした。聞こえるものに反応するのは、今は得策ではない。


 王太子の隣に控えていた少女――新たな婚約者だと紹介された令嬢は、胸元を押さえて私を見た。勝ち誇った表情ではない。むしろ、不安そうに唇を噛んでいる。彼女もまた、盤上の駒に過ぎないのだろう。


 壇上の奥、財務府の長官が微かに笑ったのが見えた。その笑みは香炉の煙より薄く、しかし喉に絡む。――ああ、これが答えだ。


「なお、リュシア・エーベルハルトには、辺境グラナート領への赴任を命じる。名目は領政補佐。任期は未定」


 左遷。厄介払い。そういう言葉が、私の中で整然と並び替えられていく。感情が勝手に湧き上がらないよう、私は頭の中で数字を唱えた。予算、収穫量、備蓄、税率。王妃教育で染みついた癖だ。


「……謹んで拝命いたします」


 私がそう告げた瞬間、王太子は何か言いかけて口を閉じた。視線が逃げる。私はそれを追わない。追えば、今まで積み上げてきたものが、音を立てて崩れる気がしたから。


 その日の夜、王城の私室は驚くほど静かだった。侍女たちが目を赤くしながら荷造りをしているのを横目に、私は机の引き出しから一冊の帳簿を取り出した。王妃候補として、各領の税収と借款の推移を学ぶために作った、自分用の写し。


 私が行くグラナート領を見直すと、数字にはやはり違和感を覚える。税収は横ばいなのに歳出額だけが増えていた。しかも帳簿上は備蓄があるはずなのに、補助金が出ている。


「……嫌な予感がする」


 私は小さく呟いた。具体的なことは分からない。だがこれまでの教育で培われた感覚が、胸の内で小さく警告音を鳴らしていた。


 翌朝、馬車は王都を離れた。窓の外を流れる石畳が、だんだん土の道に変わっていく。人の密度が薄れ、屋敷の屋根が低くなり、畑の色が増える。

 私は揺れに合わせて、膝の上の紙束を押さえた。グラナート領の過去5年分の収支推移。税目別の内訳。王都の倉庫からの補助配給の記録。――資料があるだけで、心が少し落ち着く。


「お嬢様、少しお休みになっては……」


 侍女のミレイユが声をかけてくる。彼女は私の幼い頃からの付き人で、今朝も目の端に睡眠不足の影が残っていた。


「大丈夫。揺れで酔うといけないから、目を使わない程度に読むわ」


「それ、目を使っております」


 ミレイユが呆れたように言う。私は口元だけで笑った。 


 道中、雨が降った。窓ガラスに水滴が流れ、森の匂いが馬車の隙間から入り込む。王都の香とは違う、湿った土と木の匂い。私はその匂いが嫌いではなかった。むしろ、胸の奥の氷が少しだけ溶ける気がした。


 四日目、城が見えた。しかし、城と言うには寂しい。石壁はところどころ欠け、門の鉄は錆び、旗は色褪せている。門番の鎧も、きちんと磨かれていなかった。

 ――財政が回っていない。見ただけで分かる。


「申し訳ありませんお嬢様、私はここでお別れです」


 頭を下げるミレイユ。彼女が仕えるのは公爵家であり、私ではない。婚約破棄された私に掛ける金はないと、父は判断したのだろう。にも関わらず、彼女はここまで見送りに来てくれた。


「ありがとう。帰り道、気を付けてね」


 ミレイユは拳を握りしめ悔しそうな表情を見せる。だが次の瞬間にはそれを押し殺し、何事もなかったように笑みを作った。


「これからお嬢様に幸せが訪れることを、心よりお祈りしております」


 侍女は目尻に涙を滲ませながら馬車に乗り込むと、王都へと戻っていった。


 出迎えに出てきたのは、領主のユリウス・グラナート。頑丈な体つきの中年で、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。おそらく軍人上がりだろう。歩き方に迷いがない。しかし表情は柔らかで、温和な空気が滲み出ている。


「よく来てくれました、エーベルハルト嬢。遠路ご苦労様です」


「グラナート伯、初めまして。以後、領政補佐として務めます、リュシア・エーベルハルトと申します」


 礼をした瞬間、もう一人の視線が刺さった。伯の半歩後ろに立っていた若者。髪は黒色、目線が鋭く光っている。彼が伯の息子――次期領主だと察した。


「……噂より、ずいぶん落ち着いているんだな」


 彼は挨拶より先に、そう言った。遠慮のない声。私の背筋が一瞬だけ固くなる。


「噂、とは?」


「泣き喚くとか、王都が恋しくて夜ごと嘆くとか。そういう類だ」


 伯が咳払いをした。「ロルフ、失礼だぞ」と低く叱る。ロルフ――それが息子の名らしい。彼は肩をすくめたが、目は私から逸らさない。


「領地は、正直言って余裕がない。王都から来た令嬢に、何ができる。そう思う人間は多い。俺も、その一人だ」


 正直だ。けれどそれは、誠実ということでもある。欺瞞(ぎまん)と見栄に取りつかれた王都の貴族より、余程領主に向いている性格だと私は感じた。


「そうですね。私も、王都の机の上だけでは何も変えられないと思っています」


 私は一拍置いて、続ける。


「ですので、まず現状を見せてください。帳簿と倉庫と、税の取り立ての流れ。可能なら、今夜までに」


 ロルフが眉を上げた。


「王都がどうかは知らないが、現場には現場の手順というものがある。部外者にいきなり見せろと言われて、はいそうですかと見せるわけにはいかないんだ」


 伯は少し困った顔をしながら、説明し始める。


「帳簿は、役人が管理しています。彼らも忙しい。今日中は――」


「伯。領地の問題は、忙しさで先延ばしにすると悪化します。王都で、何度も見ました」


 言い切ると、空気が少し冷えた。私自身の言葉が鋭すぎたのだろう。伯の使用人が背後で息を呑む気配がする。


 伯はしばらく私を見た。軍人の目は、相手が嘘をついているか、覚悟があるかを測る。

 私は臆することなく、彼の目を真正面から見つめ返す。ここで逃げてしまったら、きっと2度とこの場に立てなくなってしまう。

 やがて伯は小さく息を吐くと、諦めたように呟いた。


「……分かりました。倉庫は案内します。帳簿は……明日には役人に用意させます」


「父上!」


 ロルフは驚きの声を上げるが、伯は一瞥で黙らせてしまう。


「ありがとうございます」


 私は頭を下げながら礼を述べると、伯の背中を追い掛けた。


 倉庫は城の裏にあった。扉を開けた瞬間、埃の匂いが鼻を刺す。光が差し込む中、積まれているはずの麻袋が、思ったより少ない。というより――()だ。


「……備蓄は?」


 私が問うと、伯は視線を落とした。


「去年の冬が厳しくて。……補助金で買ったものも含め、全て配りました」


「帳簿上は、備蓄が残っていることになっています」


 言ってから気づく。これは責める言い方だ。けれど、事実だ。ロルフが苛立ったように息を吐いた。


「帳簿は帳簿だ。現場は現場。紙を見たって、食料が増えるわけじゃない――ここは王都じゃないんだ」


 そう、ここは王都じゃない。だけど、私のやるべきことは変わらない。


「だからこそ、帳簿を現場に合わせます」


 私は床に落ちた穀粒を拾い上げた。まだ新しい物のようで、指で潰すと形を留めようと思い切り抵抗してみせる。


「……ちなみに、配った備蓄はいつのものなのですか?」


 伯が答える前に、ロルフが口を開く。


「2年前のものだ」


 つまり、備蓄用に集めた穀物を翌年に放出したということ。


「去年以前は、いつ頃放出したのですか?」


「3年前、5年前といった具合だ」


 通常、備蓄の放出は10年に1度あるかないか。明らかに頻度がおかしい。


 私の懸念を察したのか、ロルフは苦い顔で言い訳を語った。


「この領にはとにかくお金がない。道具も人も、ぼろぼろなんだ」


 現場と帳の食い違い、そこに腐敗の影が見える。私は手を開き、粉を落とした。白い粉が指紋に残る。洗っても落ちないだろう。


「――まず、止血をします」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「支出を把握し、流れを可視化し、誰が何を動かしているのか確認する。備蓄が空なら、今ある食糧の所在を洗い出します。配給が必要なら、基準を決めて公平に。そうしないと、近い内に死人が出ます」


 ロルフの顔が硬くなる。彼は、私を初めて「お客様」ではなく「仕事相手」として見た気がした。


「……死人が出る、だと」


「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、人です。このままではこの領は崩壊します」


 言い切った瞬間、遠くで風が鳴った。城の隙間を通る乾いた音が、まるで領地そのものの呻きに聞こえる。


 ロルフが一歩、私に近づく。手元を見ると、多数の剣だこがあった。戦うことで領地を守ってきた手。けれど、戦いだけでは飢えは止まらない。


「……あんたは、ここで何をするつもりだ」


「領地を立て直します。私が追い出された理由が何であれ、ここで生きる人たちは関係ない」


 私は空の倉庫を見上げた。天井の(はり)に蜘蛛の巣が張り、薄い埃が光に浮かんでいる。

 王城の香炉の煙より、ずっと正直な空気だった。


「それと――」


 私はロルフを見る。彼は逃げない。目が合う。


「協力が必要です。領主の息子としてではなく、ここに住む1人の人間として。私を疑うのは構いません。でも、疑うなら帳簿を一緒に見てください。証拠のある話をしましょう」


 しばらく沈黙が落ちた。ロルフが息を吸い、吐く。


「なぜそこまで本気になれる。あんたにとって、この領は思い入れも何もないただの左遷先のはずだ。金だけ受け取っている方が、遥かに楽だろう。なぜわざわざ踏み込んでくるんだ」


 ロルフの瞳は問うてくる。敵を前にしても、災害を前にしても、それでも止まらず前に進む。その覚悟があるのかと。


「それが、私の存在価値だからです」


 王妃になるために教えられた知識や経験。それらはいつしか私の武器となり、支えとなっていた。

 王都だろうと、グラナート領だろうと関係ない。私の研鑽が誰かの役に立つのなら、精一杯力を尽くす。それが、私の果たすべき役割だ。


 私とロルフは視線を合わせたまま、しばらく見つめ合った。やがて覚悟が伝わったのか、それとも折れてくれたのかロルフは大きく息を吐くと静かにしかしはっきりと呟いた。


「……いいだろう。帳簿を持って来させる。今夜中にだ」


 私は小さく頷いた。胸の内側の氷が、ほんの少しだけひび割れる。勝ったのではない。ただ、最初の一歩が踏めただけだ。


 倉庫の外に出ると、夕陽が城壁を赤く染めていた。赤は血の色にも見えるし、明日の色にも見える。私はそのどちらにもなり得ると思った。

 ――そして、今日の夜。“帳簿”が、私の敵の顔を連れてくる。そんな確信があった。




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