11話 デートの誘い
朝、目を覚ますと窓から柔らかい光が差し込んでいた。
私は寝台から起き上がり、簡素な服に着替える。そして顔を洗おうと、庭の井戸へ向かった。
石畳を踏みしめながら歩くと、朝露が靴を濡らす。空気は冷たく澄んでいて、深く吸い込むと肺が目覚めていく感覚がある。井戸に到着すると、既に人影があった。
ロルフだ。
彼は井戸から水を掬い、顔を洗っていた。その肌は上気し、汗の匂いが微かに香ってくる。
「鍛錬ですか?」
私が問うと、ロルフは顔を上げた。
「ああ、日中は公務があるからな。いつも朝にやってるんだ」
何でもないことのように答える。だが、その体には鍛え抜かれた筋肉がついていた。日々の積み重ねが、彼を強くしているのだろう。
「すごいですね」
素直に感心すると、ロルフは少し照れくさそうに肩をすくめた。
「最後に頼れるのは自分の体だからな。次期領主として、当たり前のことをやっているだけだ」
こともなげに言う。だが、その「当たり前」を毎日続けられる人間は少ない。
私たちは並んで、キッチンへ向かった。
パンと牛乳を手に取り、ロルフも同じものを選ぶ。そして、二人でダイニングへ向かった。窓際の席に座ると、朝日が差し込んでくる。温かな光が、テーブルを照らしていた。
パンを齧り、牛乳を一口飲む。噛む度に甘さがしんわりと広がっていく。この領の主食である稲ならではの味なのだと、ロルフが言っていたのを思い出す。
食べているもの自体は質素だ。だが――とても優雅だと感じる。
王都にいた頃は、王妃候補に相応しいマナーと品位を求められていた。朝食時も、常に誰かの視線を意識していた。背筋を伸ばし、音を立てず、優雅に。正直、息苦しかった。
しかし今は、すごく居心地がいい。マナーに気を遣わなくてもいいからか。もしくは、横にいる人間の影響か――
「今日も仕事か?」
ロルフが問いかけてくる。
「ええ」
私は頷いた。
「一段落着いたんだ。少しくらい休んでもいいんじゃないか」
「やらなければならないことは、まだ山ほどありますから。休んでなんていられません」
ロルフは苦い顔をした。
「それは、そうだが……」
その表情が珍しく感じられて、私は少し意地悪な気持ちになる。
「そういうあなたも、仕事ばかりでまともに休んでないのではないですか?」
するとロルフは、むっとしたように眉を上げた。
「そんなことはない。むしろ、公私のメリハリは付けている方だ」
彼は自慢げに続ける。
「この前なんか劇場を梯子して、喜劇を三つも見てきたんだ」
その姿がおかしくて、私は小さく笑ってしまう。
劇場――王都では、婚約者として相応しくあるよう教育漬けだった。親しい友人もいない。遊楽場に行ったことなど、一度もなかった。
だから少し、羨ましく思う。
「楽しそうですね」
小さく呟くと、ロルフが何か言いかける。
「だったら――」
その時、廊下から足音が聞こえた。
「おはようございます」
ハインリヒが通りかかり、声をかけてくる。
「おはようございます」
私は答えた後、ロルフに視線を向ける。
「では、また後で」
立ち上がり、執務室へ向かう。背後で、ロルフが苦い顔をしていた気がした。
あの騒動から一週間。私は変わらず、机の資料に向き合っている。
調査の結果、汚職には役人たち全員が関わっていたことが判明した。伯は即座に三人まとめて解雇。そして私の助言通り、倉庫番であるハインリヒ、図書館の司書を勤めていたレイトを役人に登用した。
後一人、新しい人材が決まるまでは、私が税収の計算や帳票への記入などを担当することになった。ついでに、不正の監視役も。
彼らを信頼していないわけではない。ただ監視役という仕組み、そのものが重要なのだ。
今日も帳簿と向かい合いながら、仕事をこなす。数字を追い、記入し、照合する。繰り返しの作業だが、嫌いではない。むしろ、数字が合った時の達成感が心地よかった。
夕飯時。
伯とロルフ、そして私で食卓を囲む。グラナート領では麦ではなく、稲を主食としている。その為、夕飯時には玄米や白米が出ることが多い。お箸の特殊な持ち方に来たばかりの頃は苦戦したものだが、今や問題なく持てていた。
副菜が終わり主食に手を付けようとした時、伯が少し怖い顔をしながら私に尋ねる。
「リュシア殿は、騒動後から今まで休みを一日でも取られましたか?」
その声には、普段の穏やかさとは違う何かが混じっている。
「いえ……」
私は首を振った。
「では、明日は休日とします」
伯が告げる。
私は狼狽えた。
「しかし、それでは回らなく――」
言いかけたところで、伯の声が遮る。
「リュシア殿が一日休んだだけで瓦解するほど、この領は弱くはないですよ」
失礼なことを言ってしまったかな――そう思い、少し落ち込む。
すると伯は、優しい口調で続けた。
「ちゃんと休息を取ることも、大人の義務です」
その言葉に、胸が温かくなる。
「これからは、最低でも週に一日は休日を入れること。いいですね?」
伯の目は、優しかった。
「……はい」
私は俯きながら頷いた。
気を遣わせてしまった――そう思うと、少し罪悪感を感じる。だが、心にはじんわりと暖かさが広がっていった。
食事が終わり、ロルフと二人で廊下を歩く。石壁に映る影が、二つ並んで揺れている。
私は――これまで勉強漬けだった。だから仕事以外にすべきことが、分からない。
「私は明日、何をすればいいと思いますか?」
ロルフに問うと、彼は少し考える素振りを見せた。
「繁華街を食べ歩いたり……劇とか、いいんじゃないか?」
劇――朝、話していたものだ。
ロルフは顔を背けたまま、続ける。
「偶々、そう偶々劇のチケットが余ったんだが……一緒に、行かないか?」
そう言って、チケットを一枚差し出す。顔は背けたままだったが、耳が真っ赤に染まっていた。
誰かに誘われる経験のなかった私は、思わず問う。
「いいのですか?」
「ああ」
ロルフは短く答える。声が少し震えていた気がした。
「ありがとう……ございます」
私は大切そうにチケットを抱えた。紙の感触が、手のひらに残る。
「じゃあ、また明日」
ロルフがそう言うので、私は自室へと戻った。
廊下を歩きながら、胸の奥が温かい。初めて――誰かに遊びに誘われた。それが、こんなに嬉しいものだとは思わなかった。
♢
ロルフは自室へと戻ると、扉を閉めベッドに腰を下ろした。
リュシアのチケットを大切そうに抱え、柔らかな微笑みを浮かべる姿が脳裏に思わず浮かぶ。
「反則だろ」
小さく呟く。
窓に映った自分の顔を見ると、頬が熱を帯びていた。真っ赤に染まっている。手で顔を覆い、ベッドに倒れ込んだ。
「......重症だな」
明日が、待ち遠しい。そう思いながら、ロルフは静かに目を閉じた。
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