10話 決着
朝食の後、私は調査資料を一つにまとめた。
司書から受け取った紙束。ハインリヒの帳面。王都からの補助金記録。そして、私が徹夜で作成した照合表。全てを革紐で束ね、執務室へ向かう。
伯は窓辺に立ち、庭を眺めていた。太陽の光が横顔を照らし、深く刻まれた皺がはっきりと見える。
「失礼いたします」
声をかけると、伯は振り返った。
「リュシア殿。調査は終わりましたか」
「はい。不正の証拠を、お持ちしました」
私は机の上に資料を置いた。革紐を解き、一番上の照合表を広げる。
伯は椅子に座り、じっくりと目を通し始めた。沈黙が部屋を満たす。ページをめくる音だけが、規則的に響く。私は立ったまま、その様子を見守った。
やがて伯は、難しい顔をして顔を上げた。
深く、長い溜息を吐く。その吐息には、疲労と失望が混ざっていた。
「……これほどとは」
低く呟く声。伯は目を閉じ、額に手を当てた。その顔には、怒りよりも悲しみが滲んでいる。私は何も言えず、ただ俯いた。
しばらくして、伯は目を開ける。
「今晩徴税官を呼んで話を聞き出した後、投獄します」
淡々とした口調。だが、その目には確かな決意があった。
「承知いたしました」
私は深く礼をして、部屋を出た。廊下を歩きながら、胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じる。
不正をしていたとはいえ、投獄までされてしまう徴税官。彼にも家族がいるかもしれない。生活もあるだろう。今回それを奪うことになる――罪悪感が、じわりと湧いてくる。
私のせいで、一人の人生が終わってしまう。頭では分かっている。彼が悪いのだと。だが、心がそれを受け入れきれない。
.
……気分を切り替えなければ。そう思い、私はキッチンへ向かった。
魔道冷蔵機から硬めのパンと牛乳を取り出し、ダイニングの長机に腰を下ろす。
バターを塗る気力もなく、そのまま齧る。口の中で噛み砕くと、素朴な穀物の味が広がった。
そのまま牛乳を一口飲む。しかし、味がしない。喉を通る感触だけが、やけにはっきりしていた。
「そんな量で足りるのか?」
声がして顔を上げると、ロルフが立っていた。
「あまり、食欲がなくて」
隠す気力もなく、私は正直に答えた。ロルフは私の表情をじっと観察すると、何かを察したように少し目尻が下がる。
「罷免されるのも、投獄されるのも、奴の自業自得だ。あんたが気にすることじゃない」
彼は自身の昼食を机に置くと再度キッチンへ向かい、魔道冷蔵機を開けた。手には透明な器に入った、牛の乳を固めた白いプリン。表面には鮮やかな赤い苺が載っている。
「食え」
ロルフはそれを私の前に置いた。
「いえ、こんな高価なもの頂くわけには――」
「いいから」
有無を言わさぬ口調。私は仕方なくスプーンを手に取った。プリンをすくい、口に運ぶ。瞬間、甘さが口の中に広がった。
牛乳と砂糖の優しい甘さ。苺の酸味。それらが舌の上で溶け合い、脳が弛緩していく。疲労が、ゆっくりと溶けていくような感覚。思わず、頬が緩む。
「美味しい」
小さく呟くと、ロルフが向かいに座った。自身の昼食である白米に鶏肉と卵を和えた料理を食べ始める。そして、付け足すように話した。
「奴を罷免するのも、それを決定したのも、全て父上だ。それに、今回の件の非はグラナート領、つまり領主家にある。責任を被るべきなのは、父上と俺だ」
スプーンで米を掬いながら、彼は続ける。
「だから何というか――あんたは、悪くない」
その言葉に、胸が温かくなる。彼なりの気遣いなのだろう。不器用だけど、優しい。
だけど……私はスプーンを置き、彼を見た。
「いいえ」
ロルフが顔を上げる。
「私も、今はグラナート領の人間です」
言葉を選びながら、でも確かな意志を込めて続ける。
「だから、彼の罪も処遇も、事の顛末をこの目で見届ける義務があります」
責任から逃げてはいけない。私がこの領で動いたことで、人の人生が変わる。それを最後まで見届けなければ、私は何のためにここにいるのか分からなくなる。
ロルフは少し驚いたように目を瞬かせた。やがて私に向き直り、口角を僅かに上げながら言い直す。
「なら、共に責任を取ってくれ」
その言葉に、私も思い切り口角を上げて返答する。
「喜んで」
二人で笑い合う。さっきまでの重苦しさが、少しだけ軽くなった気がした。
♢
夜。
広間は、重苦しい空気に満ちていた。床には深紅の絨毯が敷かれ、石壁には古い時計が立てかけられている。秒針が刻む音だけが、静寂の中で規則的に響いていた。
私とロルフは、伯の後方に控えている。
やがて扉が開き、徴税官ノイワール・リカードが入ってきた。
彼はいつもと変わらぬ表情で、丁寧に礼をする。だがその瞳は、警戒に満ちていた。
「お呼びでしょうか、領主様」
「ああ」
伯は短く答え、机の上に資料を置いた。
「不正の証拠がここにある」
淡々と、事務的に告げる。
「君が粉飾をしていたのは明らかだ」
伯の声は、普段の優しさに溢れたものとは違っていた。感情が削ぎ落とされた、ひどく事務的な響き。
表情は怒っている風には見えない。だが、どこか乾いたような冷淡な雰囲気が醸し出ていた。
――尋問というのは、きっとこういう風なのだろう。私はそう思った。
伯は続ける。
「実際の穀物量と、帳簿上の穀物量。この差分の在処を聞きたくて、今回君には来てもらった」
徴税官は自身が疑われていることに対し、憤慨しているような様子を見せながら、淡々と言葉を返す。
「領主様にまで疑われるとは、心外でございます」
彼は資料に視線を落とした。
「見たところ、その紙束は私の筆跡ではない様子。そこの、リュシア嬢が書かれたのでは? でしたら、証拠能力に欠けるのではないでしょうか」
胸が痛んだ。私が裏帳簿を逃がすことがなければ……唇を噛み締める。悔しさと自責の念が、喉の奥で絡み合う。
「勘違いするな」
伯の声が、空気を切り裂いた。冷たく凍えた、殺意すら感じる声。
「お前の処遇はもう決まっている」
一歩、前に出る。
「私を裏切り、刺客を差し向けておいてのうのうと生きられるとでも思っているのか」
その迫力に、私は思わず息を呑んだ。怖い――
心の底からそう思った。伯のこんな顔を見るのは初めてだ。普段の穏やかな面影はどこにもない。
たまらず徴税官は怯えた表情で、ぼそりと呟きかける。
「あ、あなた様に……」
言いかけて、はっとした表情になり、口を閉じた。
「あなた様に?私にではなくリュシア殿に差し向けた、と。そう言いたいのか」
徴税官は無言だった。だが、その額には大量の汗が滲んでいる。
伯は変わらず、どすの効いた低い声で続けた。
「改竄に暗殺未遂。通常ならば、死刑のところを差分の在処を言えば投獄で済ましてやる」
間を置き、静かに告げる。
「言え」
徴税官は黙ったままだった。
ただ、その額の汗がどんどん増えていく。顔色が青ざめ、唇が震えている。
「そうか」
伯は短く呟くと、どこからか取り出してきた剣を握った。そのまま、徴税官に向かって歩み寄る。
殺される――そう感じたのだろう。徴税官は恐怖に歪んだ表情で、ぺらぺらと話し出した。
「差分のものは御用商人に売り払いました! その金は海外口座と宝石に分けて保存しています!」
「印章の在処、あと番号も言え」
伯の質問に、徴税官は俯く。その姿に深く溜息を吐くと、伯は剣を振りかざす。
「い、いんしょうなら妻に実家に!番号は635971です!」
徴税官は焦ったように叫んだ。そして顔を歪め小さなうめき声を上げながら、その場に崩れ落ちる。
伯は冷たい目で彼を見下ろし、控えていた私兵に指示を出す。
「牢に入れろ」
「はっ」
私兵たちが徴税官に近づく。彼は膝の力が抜けてしまったようで、上手く立てていない。私兵に引きずられる形で、部屋から連行されていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。途端に、私の足から力が抜けた。その場にへたり込む。膝が床につき、手のひらが絨毯を掴んだ。
「大丈夫か」
ロルフの声が、上から降ってくる。
「大丈夫です。ただ、終わったんだと思ったら力が抜けて……」
差し伸べてくれた手を掴み、立ち上がる。ロルフの手は、温かかった。
「そうだな。あんたのお陰だ」
その言葉に、私は首を横に振る。
「いいえ。伯やロルフ、司書さんやハインリヒさんが協力してくれたお陰です」
自分一人では、きっと叶わなかった。この領を大切に想っている人達、みんなの協力があったからこそできたことだ。
ロルフは少し考え、言い直す。
「じゃあ、あんたたちのお陰だな」
「……そう、ですね」
私は柔らかく微笑んだ。
しばらくして、伯が私たちの元を訪れる。
彼はいつもの穏やかな表情に戻っていた。しかし、先ほどまでの冷たい視線が忘れられず、私の表情は硬くなる。
領を想っての行動なのに、自分が怯えるわけにはいかない――そう考えた私は、必死に表情と態度を取り繕う。
「リュシア殿」
伯の声は、いつもの優しさを取り戻していた。
「怖い思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「いえ」
私は首を振る。
「領のために行った行為だということは、十分分かっていますから。お気になさらないでください」
声が少し震えていた。伯は私の顔をじっと見た後少し頭を下げ、部屋を後にする。少し怯えていたのが伝わってしまったのではないか。そう感じ、少し落ち込んでしまう。
すると俯く私を見かねたロルフが、問い掛けてきた。
「あんたは、父上をどう思ってる」
私は困惑しつつも、正直に答える。
「立派な方だと思います。気取らず丁寧で、領のためならば鬼の皮すら被れる」
「父上は表面上で人を捉える人じゃない」
ロルフは穏やかに言う。
「だから、大丈夫だと思うぞ」
励まされたのだと気づき、私は小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
「改めて――終わったな」
ロルフが呟く。
確かに終わった。だが、問題が全て片付いたわけじゃない。むしろ山積みだ。
「そうですね。でも、まだ変えなくちゃいけないところは残っています」
「どこまでやるんだ」
ロルフが呆れたように言う。私は真っ直ぐ彼を見た。
「どこまでも、です」
ロルフは少し驚いたように目を見開き、やがて小さく笑った。
「そうか。なら、最後まで付き合うよ」
その言葉に、胸が温かくなる。
最初は義務感だった。派遣先が偶々ここだったから、精一杯やろうと思っただけ。しかし、今は違う。ロルフ。伯。領の人々。暮らし。街並み。それらを見て、心からこの領の力になりたいと思った。
まだやれることはたくさんある。役人の入れ替え。財政の立て直し。農具の整備。インフラの修繕。
それでも、一歩一歩進んでいこう。私は改めて、そう決意した。
窓の外を見る。夜空には星が瞬いていた。遠くて、でも確かにそこにある光。
いつか、この領もあの星のように輝けるだろうか。
そう思いながら、私は静かに拳を握った。
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