第19話
穏やかで、嬉しそうで、寂しそうな笑顔。女神ミラは、チェティリよりもずっと先の未来を知っている。行く末を視ている。女神信仰が大陸から消え、僅かな伝承となり、人々の信じるモノが多種多様な変化を得ていくことも。
だからなにかひとつくらいは残したかった。いつか自分が消えるとしても、自分の愛した世界を共に愛してくれた者のために。
「この世界でひとりひとりの願いを叶えるのは難しい。だが、代表者たる君のためならば、私は喜んで力を振るおう。百年も経たずに消える信仰だ、この喜びを分かち合ってほしい。さあ、願いを言ってくれ」
手を広げて、迎え入れるように願いを待った。
「……なんでもいいんだな?」
「もちろんさ。私にできないことはない、悪魔よりもね」
えっへんと胸を張るミラを見て、イーリスはぎゅっとヴァトラの体を抱きしめる。色々な葛藤があった。また話したい、笑っている姿が見たい。頭を撫でてほしい、手料理が食べたい。あらゆる気持ちが押し寄せて、口にしてしまいそうな思いを胸の中に無理やり押し込む。
「師匠を連れていってくれ、もう休ませてあげたいんだ」
想定していなかった願いにミラの笑顔は消えた。人間なのだから、欲望のひとつくらいある。そう思っていた自分の浅はかさに、屈んで目線を合わせた。
「いいんだね?」
「ああ、構わないよ」
大事そうに抱きしめて、震えてるくせに強がって誰かの幸せを祈れる。それが今の魔女の器なのだと、ミラはただ納得して、イーリスの頭を撫でた。
「偉いね、君は。任せておいて、彼女の魂も肉体も私が安寧の世界へ連れて行こう。心配することは何もない」
「頼む。もう、こんなことが起きてほしくないから」
遺体を奪われたのは自分の甘さだ。そう理解している。だが、同時に絶対がないことをイーリスは百年の旅路で痛いほど学ばされた。生きているものは朽ちる。完璧などは存在しない。魔女という存在にさえ隙がある。
次がないとは言い切れない。人間はどこまでも貪欲で、失敗を嫌うくせに、求めるモノのためならば人生すら擲てる。また誰かが遺体を探さないとも限らない。それならいっそ、女神と名乗るミラに連れて行ってもらう方が良い。
管理できないものを傍に置けば、また後悔するときが来るから。
「ああ、いいとも」
ミラがヴァトラの体に触れると、光に包まれていく。やがて泡のように空に昇って弾けて消え、かつての魔女の痕跡はどこにもなくなった。
「他の者たちの願いも叶えたいところだが、今の私は信仰がとにかく薄い。大神官や皇帝の圧制が響いてしまったから、もう限界だ。……だけど、この国に広がった不穏な気持ちは全て消し去って帰るとしよう。後は君たち人間の時代だ。どう生きるかなど、女神に頼らずとも考えていく必要がある」
美しく彫られた女神像を見上げて、ミラは嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「君たちの歩む道が幸福に満ちていることを祈ろう」
ミラの意識は消える。まだまだ続くとはいえ、自分の世界を見届けられたことへの幸福を感じながら、光り輝いた希望を視た。
ふらっと倒れるリンの体をユディットはすかさず抱きとめて支える。今はすうすうと穏やかな寝息を立てているのにホッと息を吐く。
「これで全て終わったんだね、イーリス」
「ああ。随分と皆に助けられちまったよ。恩を返すのが大変だな」
へへっ、と楽しそうに呆れて笑う。
リンを長椅子に寝かせ、自分たちも隣り合わせに座って、ようやく一休みだ。
「皇都も変わっていくんだろうね。ミラ様は、信仰が百年もしないうちに消えるって言ってたから。まあ、このありさまを見れば納得はできるけど」
「どっちみちさ。根を張る場所を間違えたら、いずれ枯れちまう」
イーリスは背もたれに腕を預けて、天井を見上げながら。
「魔女がいなかったとしても、いずれはアドラーが行き過ぎた信仰心で暴走してたのは間違いない。ありゃ誰も疑いようがないくらいの暗君さ。信仰心ってのは強制されて持てるもんじゃないからな。偶像があろうがなかろうが、人の心の中から神は消えていく。偽物の信仰心は神の存在理由足り得ない」
いつか女神ミラの存在は忘れられていく。信仰されたというカタチだけが残り、実際に続くのは神の救いを求めながらも、神などいないと絶望する人々の世界。無辜の民が抱く失意は、ミラを愛する心ではなく何故救いを与えないのかという怒りだ。魔女がいなくとも必ず辿り着いたであろう未来は、誰でも予想がつく。
「ま、あの自称女神様はそういうのも見越してたと思うぜ……っと!」
おもむろに立ちあがって、放置していた魔導書を拾う。
「のんびり過ごしてりゃ、いつかは魔女も忘れられる日が来る。アタシは、そういう未来も悪くないんじゃないかって考えてるよ」
石造りの祭壇に魔導書を置き、ページをぱらぱらとめくった。
「こうやって魔導書を見返すたびに感じるんだ。数多の魔女が紡いできた歴史の重みってのを。でも、その紡がれてきたものが重荷になった夜もある」
大切な人の死から始まり、多くの人々がこの世を去っていった。昨日出会った老人が次の日には永い眠りについた。生まれたばかりの子供が病に殺された。永遠の愛を誓った男は短い時間を共にしただけ。何回泣いたか分からない。
もう流れる涙もない。痛みを感じないわけじゃない、ただ慣れただけだ。直面するたびに胸は苦しくなる。クラウスが、ハイデマリーが、ラモーナが、マクシミリアンが、リンが。チェティリにソロル、フラーテルもそうだ。危険な場所に置いていけば戻った頃にはどうなっているか分からない。それでも進んできた。
そうすべきだと知っていればできること。だが、気持ちは違う。置いていきたくない。死んでほしくない。その想いは変わらない。
「独りで部屋の隅で丸くなって泣き喚いた朝だって、色も分からない日常を歩いた日だって、みんなが思ってるより何度も経験してる。強い人間だと思われてるかもしれないけど、アタシは結構、寂しいのは嫌いなんだよ」
ぱたん、と静かに魔導書を閉じる。
何度も壊れかけた心は継ぎ接ぎだらけだった。
孤独に生きてきた。でも、もうそれも終わった。
暗闇の中で誰にも知られず涙を流す日々はない。
「生きるってのは難しいよな。重たいものを背負い続けなきゃならない。長い百年も過ぎてみれば短いもんだけど、重いもんを背負ったまま歩くのは大変だ。辛くて苦しいときもあった。でもその分、楽しい時間も貰って来た」
魔導書の表紙に指で文字をなぞり書く。ぼうっ、と淡く赤い輝きを放った。
「もう魔女である理由もない。魔女である必要がない」
魔導書が燃える。煌々と輝いて。
何百年、あるいは千年続いて来た魔女の歴史が、灰になっていく。
「この重荷を背負って歩くのはアタシたちだけでいい」
「……良かったのかい?」
答えなど決まりきっている。ユディットはそれでも尋ねた。
イーリスの眩いばかりの笑顔。
「十分に楽しんだ! もう世の中に魔女は要らない!」
女神の信仰と共に、魔女の神話も消える。数多の歴史の中に溶けていく。誰もが信じない与太話になる。それは、とても良いことなのだと、イーリスは思う。
「あとはじっくり楽しんでいこうぜ」
「もちろんだよ。私は付き合うと約束したからね」
ユディットは眠ったままのリンを抱きあげて、帰る準備をする。
先を踏み出す、イーリス・ブレンヒルトの背中を追って歩いた。
「いつかは魔女を必要とされなくなる時代も来るんだろうね。そうなったら、私たちはどんなふうに生きているんだろう、想像もつかないなぁ」
「今と変わんねえって。旅をしながら、色んな奴と出会って、別れて。泣いたり笑ったり怒ったり、それでいいんじゃねえかな」
ぐぐっ、と体を伸ばす。憂いは消え、今は期待ばかりが募った。
「楽しんでやろうぜ。アタシたちらしい、自由で至福な最高の生き方をさ」




