第18話
チェティリの言った、自分が存在しない可能性。アドラーたちに魔導書を奪われて、イーリスが命を落としていれば、あるいはそうなっただろう。その可能性が未来に分岐していたのは観測された以上、紛れもない事実。
しかし現実は、その可能性を乗り越えた。手を伸ばした先にある未来へ届いた。暗雲を抜け、晴れやかな場所へと辿り着いてみせたのだ。
「それから良いこと教えてやるよ。さっき、アタシは魂の定着は一分や二分じゃ無理だっつったけどな。────それ、時間切れだぜ」
突然、ヴァトラの体から白い光がすうっと抜けて、倒れているアドラーの体の中に入る。意識は失われ、彼は元の体に戻って目を覚ます。
「うっ……! な、なぜだ……!? なぜ元の体に……!」
「その発条は何度も何度もゆっくり使い続けて、肉体に魂を定着させる。魔力の少ない体で無理やり必要以上に回して急激な転移を行えば、その分戻るのも早いんだよ」
正しい使い方も分からないくせによく使おうと思ったな、とイーリスは心底呆れた。所詮は思いつきの計画だと小馬鹿にして。
「ヴェルター、もういいぜ。あいつら連れてってくれ」
「わかった。お前たちはどうする?」
「ここで少し休んでいく。あぁ、師匠の体はそのままでいい」
「……ああ。もし必要なときは誰かに声を掛けてくれ」
抵抗も空しく、ヴァールとアドラーは聖堂から連れ出された。向かうのは尋問室か、それとも地下牢か。いずれにせよ、イーリスの戦いは終わった。誰一人の血を流すこともなく、無事に。
「流石だね、イーリス。ボク、流石に今回は駄目かと……うぅ、頭痛い」
緊張が解けて、リンは震えた足でよろよろと歩きながら、椅子に座った。
「生まれたての子鹿かよ。アタシも流石に、お前が人質に取られたときはマズったと思ったさ。ユディットも大丈夫か、斬られただろ?」
「今は問題ありません。傷口も塞がって、今は元気そのものですよ」
ニコ、と微笑むユディットに安堵する。
「ごめんな、心配ばっかり掛けた」
「いいんです。無事なら。……ところで、彼女はどうするのですか?」
倒れて眠ったままになっているヴァトラを見つめた。時間が巻き戻されて生前に戻ったものの、魂の入っていない器が目を覚ますことはない。
「殺した方がいいってのは分かってんだけどさ」
物言わぬ、眠り続けた先代魔女を抱き起こして、その穏やかな表情に涙が出そうになる。もっと頻繁に戻っていたら遺体が掘り起こされることもなかったかもしれない。もっと結界を険しいものにしていれば。考えれば考えるほど悔しさがこみあげてきてしまう。ああすれば、こうすれば。いまさらなのに。
「お師匠様は。ヴァトラは、もう十分苦労した。眠らせてやりたい。なのに、アタシにはそれができそうもないんだ、ユディット」
「イーリス……」
代わりに介錯してやってくれと懇願するような眼差しに、ユディットは頷くことが出来なかった。罪人を罰するのであれば喜んで首も刎ねただろう。騎士として果たすべき職務だと、当然のように。
だが、今は違う。罪人でもない人間を殺すのは、救いとなると分かっていても抵抗がある。それもイーリスの大切な人を手に掛けようというのだ。なおさらに、ユディットが殺せない十分すぎる理由になった。
「まあまあ、お二人とも。待ちなさいよ、そう焦らなくていい」
突然、すくっと椅子から立ちあがったリンが言った。普段からは想像も出来ない言葉遣いに不思議なものを見た顔を浮かべたが、イーリスはすぐに異常を察して、リンを睨みつけた。正確には、リンの体を使う何者かを。
「誰だ、お前?」
「流石は魔女だ、私がだれか分かるんだね」
「分かんねえから誰だって聞いてんだろ」
「……あ~、うん。それはそうだ、間違ってない」
わざとらしく視線をくるりと動かして逸らす。
「まあ、誰でもいい……とはいかなさそうだね。君はいつだって慎重だ。どんな魔女よりも誇り高く生きている。では自己紹介をさせて頂こうかな!」
ふふん、とリンの体を借りる誰かは自慢げに胸を張って、手を添えながら。
「私の名はミラ。女神ミラ、君たちの世界を創りし者だ!」
かっこよく決まった、と鼻を高くする女神を自称するミラの言葉に対して、イーリスとユディットの反応は冷ややかで、申し訳なさそうに沈黙が横切った。
「あれ、もしかして信じていない?」
「お言葉ですが、ミラ様。女神だという根拠がありません」
「それはごもっともだ、ユディット。君の言い分は間違ってない」
口癖なのか、とユディットが呆れたジト目でミラを見る。
「やめてくれたまえ、視線が痛い。根拠を示せばいいんだろう」
手をかざすだけで、床に転がっていた魔導書がふわっと浮いてミラの手に飛んでいく。ばしっと掴んで即座に開き、ページを捲りながら。
「いやあ、随分とページが増えたね。私が初代魔女のアルカナに与えたときは、たった十ページにも満たない使い道の難しいものばかりだったが、彼女はそこから上手く開拓してくれたようだ。いや、彼女だけではないか」
ぱたんと閉じて、ミラが指を鳴らす。周囲に広がった一瞬の輝きが聖堂の中に結界を張って、誰の出入りもできないようにしてしまう。
イーリスには、それがどれほどのことか分かる。ヴァトラの家の周囲に結界を張るだけでも数日は掛かったのだ。その規模をミラであれば瞬時に出来るだろうと、嫌でも理解できた。
「女神サマってのは魔法も使えんのか?」
悪魔の類という可能性もある。だが、ミラは首を横に振った。
「魔女の魔力と、聖女たるエルフの聖力。いずれも私が与えたものだよ? 使えなくてどうするのさ。君だって、いつぞや自分が神の被造物だと言ったはずだ」
「記憶力の良いことで。悪魔じゃないんだよな?」
ミラがプッと小さく噴き出して笑う。
「聖堂に私ほど長くいられる悪魔がいるのか? あのチェティリ・スムルトでさえ、此処には数分といられないよ」
「仮に女神様だとして、私たちの前に姿を現した意味が分からないですが」
ユディットが切り込むとミラはう~ん、と悩む振りをして腕組みをする。
「そんなに意味が必要かい。こういうときは『ああ、女神様は本当にいたんだ』と感動に涙のひとつでも流せばいい。恩恵を授かるときはそうであるべきだ」
「それで納得できるならしてんだよ。恩恵だとかなんだとか……」
女神であるかどうかの確信がまだ持てないでいると、ミラはがっかりした、と肩を落とす。自分を見れば誰もが敬ってくれると本気で思っていた節がある。創った我ながら人間は単純な生き物じゃないなあと面白がった。
「女神は世を導きはしても救うことはできない。本来は過度な干渉を許されないんだ。何に、って言われても説明が難しくて困るけど。なんにしても、君たちのおかげで戦乱は免れた。あのままアドラーが聖女としての地位を得ていれば、それはもうあちこちで征服戦争が起きていたよ。困った男だ、まったく」
聖女でもないくせに、むさくるしい、と口先を尖らせて不満をこぼす。
「なんにしても君は、この世界で大勢の人間を救ったんだ。よもや悪魔にまで手伝わせるとは思わなかったが、それも君という人間に成せる業なのだろう。だから、ほんの僅かではあるが姿を見せた。────本物の聖女を介して」
ぽかんとさせられた。本物の聖女。一瞬、理解が追いつかず、イーリスとユディットは顔を見合わせてから、もう一度ミラを──正確には、その体の持ち主であるリンを──ジッとみて、首を傾げた。
「……リンが聖女だと?」
「すみません、具体的に教えてもらっても?」
二人の疑問は最もだ、としきりに頷き、ミラは答えた。
「そもそも正しく言えば、エルフたちは最初の聖女の血族だ。その容姿の酷似性を利用して、人間たちが都合よく書き換えた歴史の犠牲者とも言える。先のサンドピットでの惨事については、私も胸を痛めていたよ。だが、聖女となれるほどの善性を持ったエルフはそう生まれない。リンは最初から特別な子だった」
こほん、と咳払いをしてひとつ間を置いてから、ミラは続けた。
「私の信仰もいずれ薄れて消えゆく運命だ。しかしながら、せめて君たちほど世界に報いてくれた者のために、ひとつは何かをしておきたい。……だから、僅かばかりの幸運と奇跡を与える許可を頂けないかな?」




