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イーリス・ブレンヒルトの自由で至福な最高の生き方  作者: 智慧砂猫
第三章 イーリス・ブレンヒルトと狂信の皇国

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第11話

◇◇◇



 早朝、まだ陽も昇りきらない薄暗い時間から、小さな家の中ではトランクの中に簡素な荷物を詰め込んで旅立つ準備を始めていた。必要なものは外に出して、家には大量の油を撒いた。テーブルや椅子、ソファに絨毯。大切にしてきたはずのものに対する執着も捨てて、イーリスは覚悟を決めた。


「良かったの?」


 ソロルの問いに、複雑な気持ちになる。良かったのかと言われれば、別に良かったわけではない。仕方なくだ。何かを始めるための、何かを終わらせるための、最初で最後の儀式。


「全部捨てるんだ。思い出も、帰るべき場所も。今までアタシは、自分のためだけに生きてきた。それを覆すのには、思い切った行動も必要だろ」


 火の点いた松明を手に玄関の前に立ち、生活感はあるのに寂れた家の中を眺めながら、自分の居場所はもう此処ではないと悟った。


 此処には家族がいた。笑顔があった。悲しみと慟哭が満ちた。残ったのは孤独だけ。ぽつんと森の中の開けた場所に建つだけの家。思い出はたくさんある。泣いたことも笑ったことも怒ったことも。数えればキリがない。


 それでも、イーリスは松明を投げ入れた。


「思い切ったなあ、小娘。早めに戻ってきてやったのは正解だったか?」


 黒い霧と共に姿を現したチェティリが、炎の燃え広がっていく家の中を覗いて、くすくすと笑った。馬鹿にしているのではなく、むしろ讃えた。


「どうせユディットを連れて戻ってきたのを最後に、此処には帰らないつもりだっんたんだよ。お師匠様も、もう何も心配することはなくなっただろ」


 十六歳。まだまだお転婆で世間知らずな歳で、自分の身に掛かった不老不死の呪いという現実の重たさも知らない時代。先代魔女のヴァトラは、イーリスが孤独になってしまわないかと心配があった。


 いつか別れるとしても、命のある限りで次の魔女に伝えたかった。自分が死なないことの重さを知っても、支えてくれる人は必ず現れると。


 なのに現実は冷たくて、逃げようのない現実がヴァトラの命を奪った。


『イーリス。この先、あなたはとても苦しい時間を送るわ。周りが去っていくのに、あなただけは何も変わらない。それは、きっと辛い。本当なら私が傍にいてあげられればよかったんだけど、この体じゃ、もう無理そう。だから覚えておいて。あなたはいつか孤独とお別れするときが来る。大丈夫よ、だから泣かないで。私の可愛いイーリス。……ごめんね、もっといてあげられなくて』


 そのとき、いいんだ、とは言えなかった。置いていかないでくれとも言わなかった。ただ言葉が出てこなかった。目の前で命の灯火が消える瞬間に立ち会い、失意ばかりが胸に押し寄せた。


 しばらくは全身が潰れそうなほど重たかったの覚えている。何の気力も湧かず、このまま死ねたらどれほど楽だろうかと考えた夜もある。不老不死になったのを後悔した、最初の瞬間だ。


 だが、もう、それも慣れた。たくさんの人間との出会いが、別れが、徐々に感覚を麻痺させていった。自分は魔女で、周りが先に死んでいくのは当たり前だ。自分を愛してくれた男さえ寄り添う前に命を奪われた。


 孤独。孤独。ひたすらの、孤独。紛らわせてくれたのはチェティリだった。考え方は嫌いだし、悪魔と契約などいよいよ魔女ではないかと思わされたが、同じく外見が変わらず歳を取らない大悪魔の存在は、ありがたいときがあった。


 ソロルとフラーテルは、その後に出会った悪魔だ。癖のある悪魔たちとの契約はチェティリがいたからこそ成し得たようなもので、相変わらず価値観は相容れないし、人間の命を奪うことにまるで抵抗もないことにはよく思っていないが、気が合わないわけではない。話もできる。ただ、ときどき距離を感じた。


 悪魔がゆえか、何を食べるだとか、どこへ行きたいだとか、その手の話であれば何の問題もなかったが、依頼ごとになると話は変わった。


 さっさと殺してしまうべきだ。生かしておくべきだ。もっと苦痛を与えるべきだ。機会を与えるべきだ。あらゆる局面で意見がぶつかった。最終的な決定権はイーリスが持っているので、それはいい。だが、結局悪魔たちの意見はぴったり合い、そこにイーリスは混ざれない。やはり自分は彼らとは違う、という些細な孤独感に苛まれて、なんとなく気分が乗らない日が続くこともあったのは痛い記憶だ。


「……お前らじゃあ埋まらないモノが、アタシはようやく埋められた。その報告のために帰って来たようなもんだ。此処は用済みになったのさ」


「きひひ。朽ち果てるのを見るよりは、手ずから焼く方がマシだよな」


 うんうん、とチェティリは納得する。それからパチンと指を鳴らした。


 黒い霧が渦巻き、真っ黒な馬が現れた。目を炎のように光らせ、重たく土を蹴り、繋がれたゴシックなデザインの荷台を揺らす。


「行先は皇都で良いんだろ、イーリス。もう行こうぜ、胸が痛む」


 命に対する価値観はなくとも、友人の死や忘却について想うところはある。大悪魔でありながら、その存在に偏見を持たず接してくれた魔女たちの痕跡がまたひとつ消えていく。過去に行けば会えなくもないが、それはそれとして。


 イーリスもなんとなく察して、何かを追及したりはしなかった。


「頼むよ。ソロル、お前は────」

「指輪の中で大人しくしてるわ。座り心地悪そうだもの」


 チェティリが心底不快そうに目を細めた。


「眷属もいないガキが、ワシの馬車に難癖つけてんのか」

「あらまあ、ブサイクな眷属だこと。あなたとそっくりだわ」

「三流悪魔の分際で言うじゃねえかよ。先に殺すかァ?」


 悪魔同士が通じる価値観は命に対する軽さくらいなもので、決して全員が仲が良いわけではない。ときには一触即発の雰囲気になるときもある。いや、酷ければ殺し合いになるだろう。特に大悪魔ともなれば。


 そこに、ひとつの箍が存在する。


「いい加減にしろよ、お前ら。人が感傷を覚えてるときに」


 燃え盛る家を背景にイーリスは呆れて馬車に乗り込む。


「ソロル、戻るならさっさと戻れ。アタシはンな下らない喧嘩に時間を割いてる場合じゃないんだ。……ユディットが戻る前に全部終わらせたい」


 注意を受けて、ソロルは気に入らなさそうに煙を吐く。


「わかったわよ。覚えてなさい、チェティリ」

「きひひ、どうかねえ。ワシは忘れっぽいからよ」


 ソロルが煙になり、指輪に吸い込まれるように消えていった。満足げなチェティリは、さっさと御者台に乗って手綱を握りしめる。


「では出発だ! 隣には座らねえのか!」

「遠慮しとくよ。お前の馬、潰れる心配がないから荒っぽく走るだろ」

「きひひ! いやはや、まったく!」


 馬車は瞬く間に駆けだす。普通の馬よりもいくらか速い。列車よりも酷く揺れるので、イーリスはうんざりで、ソロルの言い分が正しいと思った。


「ところで、皇都の状況はどうだった」


「あァ、そりゃもう酷いもんさ。魔女肯定派だろうがそうでなかろうが、これまで信仰心に篤くなかった連中は捕まえられて、鞭打ちだのなんだの、肯定派にいたっては何人か公開処刑されてたぜ。ありゃ見るもんじゃない」


 ひらひらと手を振って、馬鹿馬鹿しく言った。


「お前さんには強い毒だ。それでも行くんだろうけどよ」

「そりゃそうさ。行かなきゃ何も終わらない」


 たくさんの人間が犠牲になる。救うまでには時間が掛かる。魔女は英雄じゃない。剣を掲げて人々の希望になれるほど崇高ではない。だからこそ立って歩く。嫌な思いもしても前に進む。できるかぎりのことはしておきたいから。


「後悔ってのはさ。してからじゃ遅いんだ。どうせ魔女だ、冷たくされたって仕方ないよ。アタシは誰のために何かをするなんてカッコつけたことはできない。でもな、チェティリ。自分の好きな居場所くらいは守りたいよ」

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