エピローグ③
◇◇◇
「────っつう感じで、今は仲睦まじく一緒に各地を巡ってるらしい」
カフェのテラス席でブラックコーヒーを飲み、苦い顔をしてカップを置く。イーリスは大人びた味が口に合わないとばかりにベッと舌を出す。
「幸せそうでなによりです。ですが、あのエーバーハルト公爵がよく許しましたね。嫡子はハイデマリー様しかおられなかったでしょう?」
多くの人々が知る通り、ハイデマリー・エーバーハルトは大切な公爵家の跡取り娘であった。好んでその地位を手に入れたヴェルター・エーバーハルトが、我が子を手放すというのは貴族たちにとっては考えられない話だ。誰も意見できないだけで、皆が愚かだと囁き、公爵家を恐れるに足りない存在になると、あたかも自分たちの時代が来たかのように、一部の者たちは結託を始めるだろう。
当然、ヴァルトシュタイン伯爵家であったユディットも、騎士団の務めに就いていたとしても貴族であることに違いはない。それゆえに公爵家がたったひとりの跡取りを送り出すのは、とても信じられない話だった。
「政治的な立場と個人的な感情を天秤に掛けた結果だろ。公爵家が潰えたとしても、娘の幸せの方が大切なひとりの親だったって話さ」
冷血で容赦がないとまで言われるヴェルターも、それは表向きの話。百年を生きてきたイーリスは、彼が子供のときからの姿をよく知っている。
「世の中には常識だけで割り切れないことなんざいくらでもあるわけよ。お前が、あのクソみたいなヴァルトシュタイン伯爵家を切り捨てたみたいに」
「そうですね。……あれからもう、半年が経ったわけですか」
テオボルドとルッツの共謀によって行われた騎士団運営費の横領は巨額にのぼり、その結末はテオボルドが極刑。ルッツもまた、娘であったユディットの計らいもあって多少の減刑がされたが、家族や従者共々、皇都を追放された。国家を揺るがす大事件はそうやって幕を閉じて、噂話も静かに消えていった。
「そう思うと、私もそれなりに長くイーリスと過ごしているのですね」
「ああ。ところで、その癖は直らないのか?」
シロップに浸された可哀想なパンケーキを見て、イーリスが顔をしかめる。ユディットは極度の甘党で、見ているだけで口の中が甘ったるく感じられた。
「イーリスも食べますか、美味しいですよ」
「遠慮しとくよ……」
気前よく笑顔で差し出されたのは、フォークではなくスプーンで掬われた、哀れなずぶ濡れのパンケーキ。食べる気も失せる、と苦いコーヒーを口に流す。
「お前はどうなんだ。そろそろ決心ついたか」
「それは……その、実はまだ、なんです」
すくったパンケーキを口の中に放り込み、気まずそうな顔で飲み込む。
「そもそも不老不死というのが、なんとなく理解できなくて」
「ただ死なないだけさ。歳を取らず、どんな病にも掛からない。腕がもげようが首が落ちようが、そりゃもうすぐに治っちまう。まあ、痛いのは痛いが」
実際にイーリスは先代の魔女が事故で首が落ちるのを見たが、まるで軽い怪我でもしたかのように、自分の首を拾って切断面に乗せると瞬く間に治った。ある種不気味で、神秘的とも言える光景だった。
それが良いことなのかどうかは、イーリスにはハッキリと分からない。自分が経験したのは馬車の転倒事故に巻き込まれて腕があらぬ方向へねじ曲がったときのことだけだが、そのときは激痛の中、死ぬことも意識を失うこともできなかった。永続的な回復能力と言い換えれば、そのデメリットは考えるまでもない。
「そして何より嫌なのは、周りの人間が必ず死ぬってことだ。どんな理由であれ、いずれ人間は死んでいく。アタシにとっては慣れた日常に変わったが、だからといって悲しくないわけじゃない。知ってる人間が死ぬのはわりと堪えるもんさ」
普段通りの、へらへら笑って適当に話す姿。しかしユディットは、その内側にある後悔や悲しみといった感情が見えていた。何度も出会い、何度も別れ、悲しみを積み重ねる生き方。あのときもっと話していれば良かった。もっと優しくしていれば良かった。もっと、もっと、もっと。色んな後悔が押し寄せて、悲しくて、でも自分だけは時間の流れに取り残されている現実と向き合うしかない。天まで届くほどの孤独に苛まれるうちに、その感情に慣れてしまったのだろう、と胸が痛くなった。
誰かを失うことの痛みをユディットは知っている。山賊狩りという厄介な仕事の中で、数名の仲間が犠牲になった。死にたくないという声を聴いた。凄絶な死を前にして無力である自分が、心底から嫌いになりそうだった時期がある。
「……さぞ、お辛かったのでしょう?」
「どうかな……。もう最初のときに感じたものは失くしちまった」
百余年を生きてみて、知った人間は多く亡くなった。小さな子供でさえ年老いて、早くに亡くなった者たちもいる。その死を全て見届けたわけではない。だが、いつか会おうと言葉を交わして、誰かの墓を前にしたときの痛みは忘れられない。
「では、ずっと旅をされているのは、その悲しみを少しでも和らげるために?」
「それはねえな。どこにいたって思い出せば辛い。友達だ家族だって関係は、そんなに薄っぺらいもんじゃないだろ。旅はただ楽しいから、そうしてるだけさ」
ウェイターを呼び、コーヒーのお代わりを頼む。椅子の背もたれに肘を掛けながら、往来の人々を眺めて思いを馳せた。
「思い出はいつか、語ることはできても語り合うことができなくなるんだよ、ユディット。そんなのって退屈じゃないか。……アタシだって寂しがりなんだぜ?」
ユディットは目を丸くした。いつも気が強く、多くのことに前のめりに挑んできたイーリスが、弱気なことを言って、心底から何かを強く求めるように微笑んだのだ。半年も過ごしてきて、初めて見る表情だった。
「ま、んなことより、早く予約しといた宿に行こうぜ。観光は明日からだ」
「港町では夜からが本番では?」
「アタシはどっちかっつうと魚よりは肉料理の方が良いんだけど」
「それは、ええ、私もです。お酒も楽しみじゃないですか」
お酒と聞いてイーリスのコーヒーを飲む手が止まった。
「……お前、自分の酒癖の悪さ分かってて言ってるのか?」
「そ、そんなに飲みませんよ……! 嗜む程度です!」
信用できないな、とイーリスは遠くを見つめる。この半年間で、否、出会ったときから既に、ユディットの酒癖の悪さは良く知っている。自分の使命だけは忘れないあたりが表裏のなさを物語っているが、騎士をやめてからというもの、イーリスによく絡むようになったので、程々に迷惑はしていた。
「こほん……。と、とにかく。イーリスに迷惑は掛けません」
「裸で人のベッドに潜りこんでくる奴が?」
「それは習慣です。さらりとしたシーツの感触が肌に触れる、あの身の軽さを感じられると、すごく眠れるんです。……私だけでしょうか」
お前だけだろという言葉を呑み込んで、イーリスは席を立った。
「行くぞ。お前もそろそろ、どうするかくらい決めといてくれよ」
「……ええ」
魔女の傍にいたいと願ったのなら、答えを決めなくてはならない。共に在り続けるのか。それとも離れて暮らし、お互いのことを忘れようと努めるのかを。
イーリスのためにも、そうしなければならなかった。大きな感情を抱かせて、深い悲しみを与えるのは、ただ彼女を傷つける行為でしかないから。
「大丈夫です、イーリス。必ず選びます」
「そりゃ何度も聞いた。だけど、簡単な話じゃない。じっくり待つよ」




